Verse 4-32
日付が変わった。リチャード一世はそれを肌で感じた。夜のツンドラには雪が深く積もっていた。動物の呼吸どころか、虫の音一つ聞こえない。
「本当に来んのかあ?」
「黙って。」
[使徒]を一緒に連れていくという意見も出たが、結局それは懸念が多過ぎて実現しなかった。悠樹邸を去る際に、リチャード一世は彼らから沢山の言葉を貰った。それを繰り返す事は不可能だった。思い出すたびに、喉が焼け付いてしまうからだ。
「待って数時間は経ったか。」
「ああ、聞こえるな。」
前にはリチャード一世とジークフリート。中央にはフィリップ二世、後ろには針葉樹の上でニコライ二世とルプレヒトが待機していた。
「来た。」
雪を踏みしめる足音が聞こえてすぐに、ニコライ二世は呟いた。主な影は二つ。前を歩いているのはグリゴーリーだろう。その斜め後ろに影が一つあった。そしてその更に後ろに、無数のスケルトン型のゴーレムが目を光らせて立っていた。
(ゴーレムの中に伏兵している可能性もある。気を付けて。)
ニコライ二世の言葉に、リチャード一世は頷いた。彼の声音が怒りを抑えている事がなんとなく感じ取れた。
「久し振りだな、グリゴーリー・ラスプーチン。」
口火を切ったのはジークフリートだった。それを合図にしたかのように、グリゴーリーは深々と頭を下げた。
「まさか本当に来るとは思っておりませんでした。」
「手紙を送りつけておいて何を言う?」
グリゴーリーの表情はよく分からなかった。煌々と輝く青白い月明かりによって顔には濃い影がかかっていた。目深に被ったマフラーが、謎めいた印象を更に強くする。
「零はいるのか?」
「ここに。」
肩の向こうを覗こうと首を傾けたジークフリートに対して、グリゴーリーはするりと横に体を避けた。彼の後ろの影はやはり零の姿だった。ジークフリートが踏み出しそうになったのを、リチャード一世は手で制す。
「お前ともあろうものがまさかタダで明け渡すわけではあるまい。条件はなんだ。言え。」
目を凝らして、ジークフリートは零の表情をよく見ようとした。しかし、零はずっと俯いたままこちらを見ようとしない。
「条件は一つ。零には今暗示がかかっている。それが解ける前に彼を奪い返せたら貴方がたの勝ちだ。」
だが、とグリゴーリーは声を低くした。背後で零が柄に手をかける。
「もし暗示が解けた時貴方がたが零を手中に収めていなければ——」
抜刀と地を蹴ったのは、同時だった。
「私が零を殺す。」
先陣を切ったのはジークフリートだった。零の刀を受け、一瞬動きが固まる。
「ジークフリート!どうした!?」
「っ重い……!」
受け止めた槍が振動する。一瞬で腕が痺れた。高く跳躍した零はそのままジークフリートの背後に着地したかと思えば一瞬で向きを変えて駆け出し始めた。
(速い……!?)
判断が追いつかない。ジークフリートはグリゴーリーを気にかける暇さえなかった。木の枝を蹴り上げて、一番にグリゴーリーの目の前に降り立ったのはニコライ二世だ。
「貴様っ……!」
喉元を掻き切ろうとしたニコライ二世のナイフを避けて、グリゴーリーは氷の刃を手の中に出現させた。
「フィリップ!零を頼む!!」
零の今の素早さについていけるのはニコライ二世くらいだった。それでもナイフ捌きが鈍るかもしれないと予想出来るほど理解の追いつかない素早さである。しかし、先の状況でニコライ二世が零に目標を絞れば、グリゴーリーの相手ががら空きになる。
「言われなくても分あってる!」
クナイを投げて、零の足首に巻きつける。幸運な事に零はジークフリートしか見ていなかった。
「操られてるのか!?」
「だからって捨て身で行くんじゃねぇぞ!てめぇの死体見るのは二度と御免だからな!!」
ジークフリートの鼻筋を刀が一線した。出る筈のない血が僅かに飛び散る。
(マジか……!)
後ろに仰け反ってバランスを崩しかけたジークフリートなど歯牙にも掛けない様子で零はフィリップ二世に視線を移した。
「おう、殺ろうってのか。今のお前はちょいとばかし骨が折れそうだ。」
腰を低く落として、フィリップ二世は腰の後ろに回していた剣の柄に手をかけた。リチャード一世がついさっきまで立っていた場所をちらりと振り返る。その影は既に、グリゴーリーの背後に潜伏していた有象無象のゴーレムの中にあった。
(あいつ一人で大丈夫かよ。)
ルプレヒトもその中にいる筈だが、暗色の服では探しようがない。フィリップ二世は零が大地を蹴ると同時に剣を抜いた。
(うっそだろ話と違うじゃねぇか……!)
頬に切り傷が走った、フィリップは間一髪で更に重心を落として首を曲げたが、なにもしなければ喉に貫通していた事だろう。ぎりぎりで剣を顔の真横に立てて難を逃れると、後ろに一度回転して距離を取った。
「まだ動けるか? なあ。」
零の目に光も感情もない。暗示を解くヒントもない。フィリップ二世は残念そうに眉を上げた。生憎彼の暗示を解く手立ては見当がつかなかった。再び零は地を蹴ろうとしたが漸くその足首にテグスが巻きついている事に気付いた。
「足元ガラ空きだぜ?」
もうこれは半殺しくらいにしても文句は言われないだろう。フィリップ二世は手首にもテグスを巻きつけて零の行動範囲を落とした。
(んだよ呆気——)
そんな簡単に行くわけがないなとフィリップ二世は瞬時に考えを改めた。零が体に力を込めただけで、一人でにテグスが散り散りに切れた。
「これ剣さえ粉々になるんじゃねぇの。」
「なるだろうなっ……!」
復帰したジークフリートが、零に向かって槍を投げる。雷に姿を変えたそれは、零が刀で打っただけで左に逸れた。ものの見事に雪が蒸発し地面が焼け焦げる。間髪を入れずにジークフリートはロングソードで剣撃を繰り出した。しかし、零の速さにはどうしても追いつかない。二、三回交えたところで、思い切り腹を蹴られて地面に転がった。
「ダセぇぞ彼氏。」
「精神的にきっついからやめろ。」
口の中に溢れた血液を乱れた雪に吐き捨てて、ジークフリートは口端に残ったそれを拭った。
「プランB、殺してでも全力で行く。」
「賛成だ。殺しても転生で生き返るんだから同じだろうが。」
ジークフリートとフィリップ二世は背中合わせで獲物の剣先を零に向けた。
「いやあ、俺らこんな事言ってよ、人の死をなんとも思わねぇ本当に化物になり下がっちまったみたいだな。どうする?ジークフリート。」
「今は僕らなんかより零のほうがずっと化物に見えるんだがな。」
心底楽しそうに、思わず声を上げて笑った。後で謝っておけよ、と呟いて、フィリップ二世は雪を蹴った。零の刀とフィリップ二世の剣が真っ向から火花を散らした。刃を弾けば、風を感じる事さえ許されない隙が現れた。刃と刃がぶつかる音だけが頼りだった。フィリップ二世は動体視力を最大限まで強化したつもりだったが全く追い付かない。
(っどうなってやがる!)
渾身の力で零の刀を弾き返して、フィリップ二世は高く跳躍してかなり零と距離を開ける。今までの戦闘を頭で振り返る。振り返って、フィリップ二世は手に持っていた剣を取り落としそうになった。
(あぁ、そうか……。)
どう足掻いても零の戦闘能力に追いつかない。その理由をフィリップ二世は見つけた。
「フィリップ、どうした!」
ジークフリートが必死になって応戦しているが、やはり彼でも零の速さに追いつく事は無理だった。当たり前だ、最初から強化などなかったのだ。零は自身の周囲に来た[シシャ]の力全てを無効化している。彼の前で、[シシャ]はただの人間と同じなにかに成り果ててしまっていた。
「どうやって勝てっつーんだよ……。」
つまり、この場に置いて零を殺せるものなど文字通りだれもいない。
(どうした、フィリップ。)
ムカつくほどに冷静なリチャード一世の声が聞こえて、呆然としていたフィリップ二世は僅かに我を取り戻した。いや、最初から正気だ、もう頭が働いていなかっただけで。
(基本的な事を俺達は忘れていた。)
そもそも零に勝とうと試行錯誤するところからして無謀極まりなくかつ不可能だったのだ。それをする為にはこの世界の摂理を捻じ曲げる事から始めなくてはいけない。ジークフリートが針葉樹の大木に叩きつけられた。今のは確実に骨がいくらか逝ったろう、とフィリップ二世は冷静に分析する他なかった。
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