Verse 4-23
それから数日、グリゴーリーの下に来客はなく、退屈な日々が過ぎた。寝巻きがないから、と言って零はグリゴーリーの屋敷では全裸で睡眠を余儀なくされていた。無論いくらかある洋服を寝巻きにする事も考えたが、どれも新品ばかりで寝巻きにする事が憚られた。零の予想に反して、グリゴーリーは言った通りにベッドでは一度も零に触れてくる事どころか、じろじろと見る事もなかった。
「お前よく耐えられるな。」
呆れたようなため息が聞こえた。どうやらグリゴーリーの癪に触ったらしい。初めて、ごろり、と零のほうに体を向けた。
「ご所望とあらばいくらでも相手をしてやろう。」
「そういうのは結構です。」
眉を上げてさぞかし残念そうに、そうか、と呟いて、グリゴーリーは再び背中を向ける。筋肉隆々とまではいかないが、それなりに鍛えられた体であるのは、ひとえに農民であった証拠だろう。
「代わりにいくつか質問に答えて欲しい。」
またか、とグリゴーリーは身じろぎした。
「お前、確かリリアム達とバスカヴィルの身辺調査をしたな。」
「ああ、あの息子を詐称した青年の事か。」
詰め寄って来た零の胸がかすかにグリゴーリーの背中に当たる。しかし、気にもせずにグリゴーリーは洗いたてのシーツのしわをいじっていた。
「インマヌエルの事は今はいいんだ。バスカヴィルについて聞かせてくれ。」
「バスカヴィル?なぜあんな私よりしょうもない男の話を聞きたい。」
流石のグリゴーリーも、肩越しに零を振り返った。その瞳といえば興味好奇心で爛々と輝いて、親に御伽噺をせがむ子供のようであった。
「あの男に固執するのはよしておけ。碌な事になる気がしない。」
突然起き上がって、零は顔を真っ赤にしながらグリゴーリーの肩を叩いた。
「お、お前よりまだマシだろ!性根は捻じ曲がってるかもしれないけどさ!!」
本気で叩いたのか、ばちん、と音が鳴ってグリゴーリーも慌てて起き上がる。その平手から逃れながら、壁際に背をつけた。
「何故そんなに怒る!? お前を非難したわけではなかろ……まさかお前、あれに惚れているのか?」
「惚、惚れ……!? そんなわけないだろあんな碌でもない男!」
グリゴーリーは半眼になった。碌でもないをさっき否定したのは一体だれだ、と思いながら、怒り心頭の零を落ち着かせる。
「分かった。口からでまかせを言ったのは謝る。だが、私はバスカヴィルに関してお前に教えられる情報などなに一つ持っていない、それだけは知っておけ。」
怒りのやり場がなくなって、零は振り上げた拳を枕に叩きつけた。駄々を捏ねる子供のように唇を尖らし、そのまましわくちゃになったタオルケットにくるまる。こういう様子を見てグリゴーリーは心の奥底で確信した。惚れているかいないかは置いておいて、零の中でバスカヴィルはかなり特別な位置を占めている。
(まあ気にするなというのも無理な話か。)
名だたる美女美男さえ羽虫のようにあしらうあのバスカヴィルが、ただ一生涯の愛を懸命に注いだのは、だれが知る限りでもレイだけだった。勘違いであろうがそうでなかろうが、零がバスカヴィルに対して言い知れぬ感情を抱くのも無理はない。
「それで、他にも質問があるのだろう?」
グリゴーリーも羽毛布団の中に入って、背中を向けて拗ねる零にそう投げかけた。零はちらりとグリゴーリーを見て、すぐにそちらへ体の向きを変えた。
「黄金の指環について。」
顔が強張ったのがよく分かった。グリゴーリーは零から少しだけ視線をずらして、一番向こう側の本棚に飾ってある枯れきった花を注視した。
「あの指環のなにが聞きたい。」
だが、その話題を避けようとは思わなかった。いつか零が知る事実であり、そして聖戦に勝つ為には知っておかねばならない事だった。
「俺も指環についてぼんやりとしてそこまでは……あの指環をするとなにか変わるのか?」
「そうさな。変わるぞ、劇的に。」
言葉少なに答えて、グリゴーリーは頭の中で物事を整理する時間を稼いだ。
「……お前は、私がこの世界でどのような役割を持っているか知っているか?」
「え?あぁ、[死]だろ。知ってるよそんくらい。」
少し儚げにグリゴーリーは笑った。突然前髪をちょいちょいといじられて、零は頭を引く。
「故に私は[人間]を含め全ての動植物の死を見てしまう。この意味が分かるか?」
次に強張るのは零の番だった。ガーネットの赤い瞳が瞠目して、グリゴーリーの青白い瞳を見返した。そこにはなんの催眠も介在しない、ただ自分を見る目二つだけがあった。
「あの指環をする事で、雑に言えばこの世で定められた摂理全てを超越する事が出来る。私の場合は、死を見るという摂理を超越していたわけだ。」
「じゃあ今は見えてるのか……?毎日?毎秒?」
厳かにグリゴーリーは頷いた。
「目の前を埋め尽くされると言うよりは、頭に直接流れてくると言えばいいか。無数の死に対する感情が流れてくる。悲しみも怒りも、喜びさえ。」
「大戦の時は……?」
シーツの上でなにかが震えているのが分かった。零はそうグリゴーリーに尋ねながら、布団の中をそっと探った。
「残念ながら私が指環を受け取る事が出来たのは一回目の第二次世界大戦の後だった。凌げたのはお前が戻ってきたあの大戦、一度きりだ。」
とっ、と触れたのは、グリゴーリーの手だった。思い出して震えているのか、グリゴーリーは自分でそれが止められないようだった。その節の太い手を、零は握ってやった。
「あの偽物の指環では大層な重荷だっただろうな。全ての死が流れ込むという事象を食い止めるには荷が勝ち過ぎた。」
「俺を恨まないのか。お前にそんなものばかり見せたのに。」
今にも泣き出しそうな顔で、グリゴーリーは一瞬だけ口角を上げた。
「この私が神を恨めると思うのか?人生の全てを神に捧げたこの私が。例え神がだれであろうと、神ならばそれに従うのみ。それが私の信仰だ。」
「グリゴ――」
複雑な感情のまま、零は神経薄弱な男の名前を呼ぼうとして口を塞がれた。
(口を開くな、だれか来た。)
頭の中に、グリゴーリーの声が響いた。零は身を固くした。逸叡と矢桐の会話を思い出す。
(服を着ろ。)
耳をすませば、金属のぶつかる音が聞こえる。隠密というわけではないが、明らかに相手は慎重だった、零はベットから這い出し、グリゴーリーは薪を小さな暖炉に放り投げてその衣擦れの音を誤魔化した。
(どうすればいいんだ!?)
(いいから早く着替えろ。)
零が軍人並みの鮮やかな手並みで服を着込むのを見ながら、赤いペルシア絨毯の角を捲る。その上に膝をついて、グリゴーリーはフローリングに目を凝らした。第一波が来た。激しいノックの音に、しかし零は動きを止めずにグリゴーリーに駆け寄る。グリゴーリーはフローリングの一部を、出来るだけ音を立てずに釣り上げると、暖炉の上に置いてあったランタンに、いつもの青い炎を灯した。
(この地下道を行け。一本道だ。上に登る階段を行けば、湖の岸辺に出る。)
ランタンを受け取って、零はしっかりと頷いた。急いで石畳の階段を降りようとすると、思い出したようにグリゴーリーはその細い肩を掴んだ。
(逸叡の話では対になる銀の首飾りもあると聞いた。詳細はあいつに聞け。恐らく私が知らない事もいくつか知っている筈だ。)
返答も待たずに、グリゴーリーは零の背中を押した。早く行け、零が最後に見た青白い瞳が、暗示をかけるようにそう言っていた。
* * *
階段を降りて暫く歩くと洞窟の中に出た。凍えそうに寒く見えるが、グリゴーリーが渡したランタンのおかげでその寒さを感じる事はなかった。零は振り返る。あの家に来たのは一体だれだったのか、グリゴーリーはどうなったのか、それだけが気になって仕方がない。前者の疑問には、なんとなく見当がついていたが、答えを出すのは早計な気がして、頭にぼんやりと浮かんだ名前を遠ざけた。
(行かなきゃ。)
零は歩みを続けた。ランタンの届く範囲から外れた呼吸が、かすかに音を立てる。グリゴーリーが以前ぼやいたのを聞いた事がある。シベリアでも同じ現象があると。
(星の囁き、だっけな。)
氷点下五十度まで行くと、人の吐く息さえ耳の辺りで凍っていくらしい。その吐息が鳴らす音を、シベリアのとある地方ではそう名付けられていた。
(……階段!)
鍾乳洞のような場所を歩いていくと、ただただ広い広間に出た。その向こう側の暗がりに、確かに細い階段があった。もう使い物にならないほど欠けていて、人一人が漸く通れるようなものだった。零はもう一度振り返る。そして、グリゴーリーの言いつけの通りに、その先の見えない階段を登り始めた。
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