Verse 4-21
グリゴーリーの家は至って簡素であった。彼の生前の家は幾らか写真で見た事があるが、木造二階建ての地主らしい大きな家であった。しかし、今彼がいるのは平屋だ。部屋も数もずっと少ない。祈りを捧げる為の部屋が一つ、リビング兼寝室が一つ、バスルームが一つ。他にはなにもなかった。
「で、俺は床かソファーで寝ればいいわけか?」
「何を言っている?同じベッドで寝るに決まっているだろうが。」
食堂を出る時に何気なくゴーレムがかけてくれたローブを床に落として、零は思わず振り返った。
「だれがおめぇとなんて寝るかこのスケベ神父!身を弁えろよ!!」
「無論お前が女としての性をきちんと謳歌しているのであれば弁えるとも。」
グリゴーリーが腕を上げた瞬間、零は思わず身を縮こまらせた。後ずさった先にあった壁に、神父の拳が叩きつけられる。
「お、お前本当にだれでもいいのかよ!? お、女なら……!」
「別にだれでも良いわけではない。基準は設けているとも。どれ――」
タートルネックの裾から手を入れられ、零は思わず瞳を力強く閉じた。肌にグリゴーリーのやけに高い体温が触れる。しかし、胸の辺りまで裾が上がったところで彼の手はすっかり止まってしまった。激しい鼓動を抑えながら、零は片目を上げてグリゴーリーを見上げた。
「失礼だとは思うが敢えて聞く。最近の年頃の娘は下着をつけないのが流行なのか?」
胸の下に確かにグリゴーリーの指が当たっているが、それは嫌らしいと言うより訝しげで、なにか確認しているような感じであった。
「え……いや、俺はそもそも男だからどっちでもいいかなって思ってるし、そもそもこの服を持ってきた時にルプレヒトがブラジャー持ってこなかったから……。」
ルプレヒトの名前を聞いてグリゴーリーは太く雑然とした片眉を上げた。そして、服の中から手を素早く抜き取ったかと思えば、長い襟ぐりに指をかけて、そっとその中を覗く。
「……成程。」
そう呟いて、グリゴーリーは零の前から退いた。
「ベッドは一つしかないがお前には髪一本触れない。安心しろ。」
「唐突にどうしたんだよ。首に何か……?」
グリゴーリーが覗いただろう辺りの首元をさすって、零はタートルネックのトップスを脱いだ。くるりとグリゴーリーが背を向けたのが鏡で見える。
「……。」
零もまた、成程、とぼやいた。赤い斑点がいくつか首に散っていたし、軽く絞められた後もよく見れば薄っすらと残っていた。
「基準を聞いていいか?」
玄関口でマフラーを吊るしたグリゴーリーは、半裸の零を視界に入れないまま答えた。
「私が愛するのは真の愛を受ける事の出来ていない女だけだ。夫が同性愛者であったり、はたまた暴力を振るうばかりの男であったりな。」
どこから持って来たのか、グリゴーリーは祈りの部屋から出てくると新品の毛布を一枚零に放った。
「風呂に入れ、そして寝ろ。アーサーに見つかるまではここに匿える。」
バスタオルやハンドタオルも押し付けられながら、零はグリゴーリーの顔を見上げた。青白いギラギラとした瞳から少しだけ視線をずらす。
「見つかったら……どうするつもりだ。」
「逸叡を説得する他あるまいよ。」
寝室の真向かいにあるバスルームのドアを開くと、グリゴーリーは先に入るように零を促した。
* * *
地獄での生活はあまりにつまらないものになりそうだと想像していたが、実際はそうでもなかった。まず、起きた次の日には面白い物見たさに逸叡がやってきた。彼も彼で仕事があるようで、ほなまた、と軽く挨拶をしてさっさとグリゴーリーの家を出てしまったが。殆ど毎日家に来るのは、アロン・サムイラヴィチ・シマノヴィチという、生前からグリゴーリーの秘書をやっている者だった。グリゴーリーはあまり零と彼を一緒にしようとはしなかったが、零は時たま隙を見つけて、グリゴーリーの話を聞いては見つかって追い返された。
「まだ見つかってはいないが……か。」
「まあ時間の問題でしょうな。あのお嬢さんはじっとしているのが性に合わないようで。」
グリゴーリーは目の前で座っている白い髭面の老人から視線を逸らした。バスルームからちらちらと、零がこちら側を覗いている。
「たまには外に出してあげては?」
「それが出来れば苦労せんわバドマエフ。」
よく櫛で梳かされた細い髭を撫でながら、仙人じみた、しかし随分と胡散臭そうな老人は面白そうに笑った。廊下の先でじっと二人の会話に耳を傾けていると、突然、とんとん、と肩を叩かれ、零は飛び上がって振り返った。
「つまらへんやろ変人の会話聞いとっても。」
いつの間に入って来ていたのか、逸叡が紙袋を提げてすぐ後ろに立っていた。
「は、逸叡……。」
「そういえば思うてなぁ、つい先にケーキ食べれへんかったやろ?詫びに買ってきたんやけど、お二人さんは話し込んどる様子やし、わいんとこで一つどやろか。」
掲げた紙袋からは、ソースのいい香りがした。デフォルメ化された鯛が印刷されているところを見ると、恐らくお好みたい焼きかなにかだろう。
「逸叡のとこっつーことは[妖界]に?」
「良かったら下見でもしていってや。あんさんの事だから喜ぶ御仁もおるさかい。」
逸叡はちらりとグリゴーリーに視線をやると、グリゴーリーもさっさと行けとばかりに手を振った。
逸叡の後について、食堂とは反対の道を行く。道と言っても、踏み固められたような道は一切なく、分かるのは方角が真反対である事だけだ。
「どのくらいかかるんだ?」
「そんなかからへんで。目と鼻の先や。」
指をさした方向には、波立つ黒い湖があった。別に水が黒いわけではない。しかし、そうと見紛うほどに空は暗かった。
「……という事はここは地獄の最下層か。」
「物分かりがええんやな。……せや、寒さは気にならんのやろか?」
地獄の最下層の気温は零下というレベルではない。その場ではあらゆる事象が凍りつくとも言われているが、定かではない。実際、零達の足元は霜が降りるどころか踏みしめても地面が沈まない程度に凍っている。無事なのは、グリゴーリーの家の中くらいだ。
「一応これは欠かさず持ってるんだけど。」
そう言って零がかざしたのは真っ青な炎の輝く煤けたランタンだった。逸叡はそのガラスを弾くと、物珍しそうに中の炎を覗き込んだ。
「こんなんがあるんなあ。ええなあこれ、わいも作ってみよ。」
グリゴーリー曰く、この炎は彼が作り出した[燃料]の一部で、光の当たる範囲で様々な事が出来るという。今は専ら零の防寒具であった、
「ここ入ったらもうそれは要ら……いや持っといたほうがええな。」
吊り輪に指をかけようとして、逸叡はやはりランタンを受け取るのをやめた。揺れで炎が左右に振れる。
「この湖が入り口なのか?船は見当たらないが。」
「船なんてあらへん、歩いていくんや。」
逸叡はランタンを下げている零の手首を掴むと、まるで子供が横断歩道の白い部分だけを踏んで渡るように、弾みながら湖に足を入れた。水面の上に爪先が当たると、まるで音の波紋のように水面に円が浮き出た。遠くに朱色の古びた鳥居がいくつも並んでいる。
「凄いな、どういう仕組みだ……?」
「さあ、どういう仕組みやろなぁ。」
すっとぼけているのか、本当に分かっていないのか、逸叡はいつもの愉快そうな微笑みでそう呟いた。
毎日夜0時に次話更新です。




