Verse 4-19
少し気が重たかったが、零の心はどこかすっきりしていた。取り敢えず、ルプレヒトと腹を割って話す事は出来た。
(しかし、なんて言い訳するかな。)
赤いドレスはルプレヒトが後日リーズに直接返してくれると言う事で、零の荷物は本当に少なかった。携帯端末と化粧用品、その他マナーとして持ち歩くべき物だけだ。二月のウィーンの街はまだ暗く、そして酷く寒かった。ダッフルコートの前を掻き合わせて、アパートメントに急ぐ。
(帰ったら早くお風呂に入ろう。)
大通りから少し狭い道路に入った途端、零の頭に鉛のように重い感触があった。膝から石畳に崩れ落ちる。
「すまんな。」
足元に見えたのは、裾の長い黒い衣類と、僅かに革製の爪先。
「しかし、こうする他もう手立てがないのだ。」
零はその体を地面に打ち付けた。
夜通しベートーヴェンの第九を大音量で流しながら車で走って、自宅には大体陽が綺麗に出ていた頃に到着した。流石に無茶をしたせいか、そのまま服を脱いだきりなにもせずにベッドで爆睡をかましていたルプレヒトは、一つの着信で目を覚ました。
「なんだ。」
『ルプレヒト、今どこにいる。』
聞き間違えるわけがない、ジークフリートの声であった。
「自宅だが?」
『零を連れ込んでないだろうな。』
見えもしないのに、電話の主に対してルプレヒトは怪訝そうな顔をした。起き上がってベッドの端に座る。時計は午後三時を示していた。
「何故俺を疑う? あいつはオペラ座にいたと聞いているが?」
『その後ホーフブルクの仮面舞踏会に参加したらしい。お前、あそこで何曲か頼まれてただろ。』
ジークフリートの憶測を、ルプレヒトは鼻で笑った。
「話が読めないな。お前がそんなに気にかける理由があるのか?」
『零が帰ってきてない。』
笑みが一瞬にして消え失せた。
『部屋が……出た時のままだ。』
* * *
体を動かそうとすると、まず頭が痛んだ。動くな、と言われたような気がして、零はベッドで身じろぎをするにとどまった。
「まだ痛むか。」
聞き覚えがあるが、しかし今はどうも心地よかった。音一つが紡がれる度に痛みがどこかえ失せていく。
「うぅ……。」
「強く殴り過ぎたか。女への手加減は難しいな。」
痛みが薄くなった頭で一瞬物事を考えて、零は慌てて上半身を起こした。見覚えのないベッド、見覚えのない壁紙。その隣で零の頭に触れていた人物を見て、零はベッドから転げ落ちそうになった。
「ラス、プーチン……!?」
「許可もなく殴った事は謝ろう。だがそうでもしなければ計画通りに行かなんだ。」
じりじりと下がる零の手首を掴んで、グリゴーリーはとても真剣な瞳でその目を見た。零の動きが止まる。
「俺をダシにあいつらと交渉するつもりか? それとも――」
「お前をダシにするつもりも、危害を加えるつもりもない。」
疑り深そうに、零はゆっくりと周囲を見回した。辺りを観察しても、所在地を示すものはなにもない。
「ここが何処か知りたいか?」
零は再びグリゴーリーに視線だけを寄越した。
「地獄にある私の家の近所だ。」
「地っ……そんな所に連れてきて俺に危害を加えないって……それを信じると思ってるのか!?」
無論だ、とばかりにグリゴーリーは零の瞳を真っ直ぐに見返した。どうやら彼は本気のようだった。
「……以前も言っていたな、俺の敵ではないと。」
グリゴーリーは身動ぎもしない。それがなんとも不気味で、零は唾を飲み込んだ。
「その答えが、これか。」
「そうだ。」
グリゴーリーは躊躇いもなく答えた。その実直さに、零は額を抱えて舌打ちをした。零にとって、この男はとても扱いづらい。
「その理由は言えないという事だな。」
「どの理由だ? 敵でない事か? はたまたここに連れ去った理由か。」
額に当てていた腕を下ろして、零は少々うざったそうに目元をしかめた。
「どっちもだ。」
随分と長い間真面目な顔をしていたグリゴーリーは、その時初めて、少しだけ弾けたような微笑みを浮かべた。立ち上がり零の頭を注視した後に、ついて来いとばかりに足早にそのベッドが並ぶ部屋を出ていった。
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