Verse 4-17
その日のピアニストとしての仕事を終えて、ルプレヒトはつまらなさそうにホーフブルク宮の廊下を歩いていた。見慣れすぎた景色、多少の変化はあるものの、この宮殿の骨子は殆どそのままだ。ピカピカに磨き上げれた黒い革靴で、鏡のように現を写す床を人の波に抗いながら歩く。宮殿内の探索も丁度飽きた所だった。そろそろ帰ろう、と自分の控え室に向かっていた時だった。
「角を曲がって三番目の客室。」
ぼそりと、何故か周囲の雑踏から特別耳についた声だった。怪訝そうに眉をひそめる間もなく、ルプレヒトは振り返った。今まさに、彼が視力を持つ唯一の瞳に、ある男の姿が僅かにうつった。空気にたゆたう美しい黒髪。その隙間から見えた満足げで性根の悪そうな微笑み。
「バ――」
名前を呼んで追い駆けようとした所で、ルプレヒトは我に返った。角を曲がって三番目の客室、それは彼の控え室だ。呟きの主がなぜそれを知っているのか。
(俺の部屋に何が……?)
もう一度廊下を振り返る。もうそこに見覚えのある男の影はない。幻覚か、とも思ったが、[シシャ]である彼が幻を見る可能性は限りなく低かった。見えもしない男の影を追うのは諦め、ルプレヒトは足早に自らの控え室へ戻った。鍵は出てきた時の通りに閉まっている。金色の仰々しい鍵を差し込み、ルプレヒトはそれを回す。難なく開いた。そしてドアノブに触れて、ルプレヒトはいくつかの事柄を感じ取った。まず一つは、冷たい筈のドアノブが妙に生暖かかった。これはだれかがつい最近にこの扉を開けたか閉めたかした証拠である。しかし彼はワインも食事も言いつけていない。つまり彼の知らない用事で、彼の知らない人物がこの部屋に入った。そして次に、雑踏に混ざって僅かに聞こえる整った寝息。部屋の中に、既にだれか存在している。
(誰だ……?)
おまけに寝ているということは十中八九敵ではない、という事だ。面倒事だ、とルプレヒトは悟った。僅かに扉を開けて、不法侵入者を起こさないように体を入り口に対して平行にしたままするりと部屋の中に入る。
「っ……!?」
あまりの事に度肝を抜かれて言葉を失った。女子が一人、中央に置かれたベッドに横たわっている。黒々としたウェーブがかった髪は深いグリーンのビロードに垂れている。ワインレッドのドレスが、床すれすれを浮いていた。
(まさか……いや。)
すたすたと近付いて、背もたれ側を覗き込む。オールバックにしていた赤褐色の髪の毛がはらりと視界を覆った。
(……まさか。)
覚えにあるより細い肩を掴んで、その体を仰向けにした。実に幸せそうな零の寝顔だ。
(オペラ座にいる筈では? 何故ここに……デビュタントのドレスは、ティアラは何処に……?)
起こさないように零から離れて、部屋の隅々を探す。隈なく、一点の見逃しもなく。しかし、彼の欲しかった情報は得られなかった。要するに、彼女はオペラ座を抜け出してきたという結果が導き出された。
「……起きろ。」
流石に苛々して、今の関係上なら実に慎重に声をかけなければいけない所を不用心に起こした。少しルプレヒトは後悔した。低い声で呟いたつもりだったが雑音の殆どないこの部屋では零を起こすに十分だったようだ。
「ん……。」
「どうしてここにいる? なにがあった。」
ぼんやりとした顔でルプレヒトに焦点を合わせれば、零は慌ててソファーから転げ落ちた。ドレスの裾を踏んで、前につんのめる。
「落ち着け。」
さも当然の事のようにその体を受け止めて、ソファーに座らせる。
「え、あ……。」
「オペラ座はどうした。」
しどろもどろになる零に対して、ルプレヒトは様々な感情を押し殺して誠実な態度で尋ねた。
「えと……ドナウの後に抜けてきた。」
「一人でか?」
零は首を振る。
「助けては、もらった……。フィリップに。」
またあいつか、とばかりに首を振る。だが、マナーハウスにいた零を見てなにか思う所でもあったのだろう。深く追求する事はやめた。
「俺の居場所はあいつから聞いたのか?」
「いや、ここはたまたま、ペアを組んだ咲口から聞いて……。その、来たのは一人で。」
訝しげに眉を上げる。
「一人で? ならなんでここに――」
「お、俺も分からないんだ!ダンスホールに入ろうとしてから記憶がなく……て。」
肩を落とし、項垂れる零にそれ以上を聞いても無駄な事は一目瞭然だった。暫くその姿を見つめていた後、ルプレヒトは零に触れる事もなく立ち上がった。机の上に散らばっていたピアノの楽譜を仕事鞄に押し込んで、随分とぬるくなったビールをあおる。
「家に送る。どこのアパートメントだ。」
「えっいいよ、流石に一人で帰れるから。」
危機感のなさに、ルプレヒトは思わずその細い腕を掴み上げた。鼻と鼻が触れそうな位置まで近付いて、眼を細める。
「いい加減にしろ。今のお前は男じゃない。ここは日本でもないし、おまけに夜だ。お前は自分で自分の体の責任が持てるのか?」
図星だった。口を噤んで、再び俯く。零がちらりとルプレヒトを見ると、彼は腕から手を離してため息をついた。
「……一つ。」
じろり、と狼のような鋭い瞳が零を睨んだ。
「そのまんま帰りたくない……あと、ドレス脱ぎたい……。」
現実でのルプレヒトとの関係が最悪なら、零にとって今はまるで夢であった。ルプレヒトは零の注文をただ黙って聞いて、一度部屋を出た後にそれなりの私服を見繕って戻ってきた。その後すぐにメルセデス・ベンツの後部座席にその日の窮屈さと疲労の全てを放り出した。鍵を回して、エンジンをかける。特に行く当てはなかったが、零が行きたそうな場所を察せてしまう自分自身が、ルプレヒトは実に憎たらしかった。
「この時期のウィーンはいつもこんな?」
「騒がしくて頭が痛くなる。さっさとドイツに帰りたい。」
饒舌なルプレヒトに苦笑する。零は車窓の向こうに流れる賑やかなウィーンをただただ眺めた。
「俺も……明日、ロシアに帰る。」
ルプレヒトはなにも言わなかった。ただ黙々とハンドルを動かし、彼が思い描いている目的地へ向かっていく。サイドブレーキを握る、黒い革手袋をはめたルプレヒトの手に自らの手を恐る恐るかざした。例え眼帯をして見えていないとしても、ルプレヒトは空気の揺れと気配でそれを察してる筈だが、サイドブレーキから手をどかす素振りは一切見せなかった。その行動に驚きを隠せずに、零はちらりと信号待ちのルプレヒトを見やる。勝手にしろとばかりに、彼は僅かに息を吐いた。手の甲に[人間]特有の温もりを感じる。信号が青になり、ルプレヒトはゆっくりとペダルから足を離した。
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