Verse 4-15
二月に入って、久志はボストンバッグを手にマナーハウスを訪れた。フィリップ二世が彼の為に仕立ててくれた礼服は既に国際便で目的地へ送られて、彼は殆ど身一つで乗り込んだのである。
「わあ。」
「ひ、久し振り……。」
光沢のあるティールブルーを基調として、水色がかったシルバーのブレードで縁取られたデイドレスを身に纏った零に久志は驚きが隠せなかった。以前とは違って長くなった黒い髪をうなじの上でシニョンにしている事もあってか、それとも薄くとはいえ化粧をしているからか、零はもう一人前の令嬢として彼の前に立っていた。
「会って見るまで半信半疑でしたよ。」
「そりゃ俺だって……こんな事になるとは思ってなかった。」
頰を膨らませて、自らの胸のラインに視線を落とす。久志はボストンバックを机に置いて、淡いゴールドとモスグリーンのストライプ柄ソファーに腰を下ろした。
(今思えば――)
フィリップ二世がなぜ久志をそれ程までにぴったりだと思ったのか漸く得心がいった。本人はあまり気にはしていないが、そういえば以前勝手に体を女性へ変えられた事があった。その事実に対する受け取り方が違うとはいえ、同じような現実に直面しているのだ。
「良かったらどうぞ。」
少し考えるような素振りをしていた久志に、零は少し高くなった声でそう告げた。テーブルの模様から目を話すと、背後からゴーレムがティーセットを運んできた。
「いただきます。」
目の前にあるのはシノワズリの茶器だった。底には両翼を開いて今にも鳴き出しそうな真っ赤な鳳凰が立派な虹色の尾羽を見せつけて、翡翠色の龍が行儀よく縁に収まっていた。セットの皿には、久志が持って来た虎屋の羊羹が鎮座している。
「こんな事聞くのもなんだけど……、女の子の生活ってどう?」
「苦痛の一言に尽きる。」
久志は苦笑した。彼の目から見ても、零は少し疲れていた。
「ここを出たらさっさとズボンの生活に戻りたいよ。なんだって女性はこんな窮屈な服を……好んでいたわけではないにしても。」
「まあ、それが男性の強要した女性像ってところで。」
成程、と零は顎をくいっと突き出して鼻を鳴らした。お互いに天井を見上げて、その華々しさに疲れたため息を吐いた。
「ワルツのお手前のほどは?」
「まあまあ。」
零の困ったような微笑みに、久志もくすくすと笑った。
* * *
翌日から、ヴィーナー・オーパンバルへ向けた練習が始まった。久しく会っていないアナスタシアと朝食を共にしていくらか会話を交わした後、零は久志と共にレッスン場所へ入った。もう零には、教師を務めたマリア・テレジアの姿はない。既に全ての課程を修了していたからだ。
「どの曲にする?」
「ド定番で頼む。」
そのおかげか、零の雰囲気も昨日より少々和らいで見えた。久志がよく知るのと同じ立ち振る舞いで接してくる零に、多少の安堵感があった。零が手に取ったレコード盤には”An der schönen, blauen Donau”と書かれている。紙の袋から取り出して、零の手からそれを受け取る。その手つきは、男性というのは女性的だが、女性というには男性的過ぎる気もした。
(危ういなあ。)
他人事のように久志は思った。これは男女共にうっかり落ちる人も多かろう。残念ながら久志はそういうのがタイプではなかった。
「そういえば零さんは時代的には……バロック音楽?」
「あぁ、ピアノがない時代だ。ルプレヒトは本当はオルガン奏者なんだ。いつの間にかチェンバロを弾くようにもなってたけど。」
蓄音機から温もりのあるノイズと共に馴染み深いメロディが聞こえてきた。最初は遠方から望むハンガリーの平原をゆっくりと流れる大河ドナウを彷彿とする。久志と零は殆ど同時に手を上げた。
「ドナウ川を見た事は?」
「実はオーストリアからしか見た事なくてね。青いのはハンガリーのほうなんだろ?」
その大河の横を、朝の日差しを受けながら散歩するように、二人はウィンナーワルツのステップをゆっくりと踏み始めた。
「実は僕も見た事なくて。衣刀が……同僚が買ってきてくれた絵葉書でしか見た事が。」
「絵葉書で見た事があるならまだいい。写真でさえ見た事ないんだぞ。」
久志は声を上げて笑った。長々と思いため息を吐き出し、零は久志を握る手に力を入れた。
「当日はもっと窮屈な服にティアラか……。」
「更に大勢の観客……でも当日はジークフリートさんが来るって聞いてるよ。」
少し寂しそうに眉を寄せて微笑む。向こうはともかく、零は今の姿でジークフリートに会いたくはなかった。
「それじゃあ哀れな気持ちになるだけだな。」
「後は……ホーフブルク王宮で仮面舞踏会もやるとか。」
へえ、と零はその話に少し興味を示した。ウィーンは二月のカーニバルの時期になるとあちらもこちらも舞踏会だらけになる。
「まさかオーパンバルと同じ時間?」
「マスカレイドのほうが終わる時間は早いって言ってたね。」
零は窓の外を見た。
「咲口はヴェネツィアのカーニバルを見た事は?」
「いや、ないけど。」
久志の腕のアーチをくぐって一度回ると、零はにやりと笑った。
「実は俺は帝國で見にいった事があるんだ。ジークと一緒に。顔が見えないっていうのが、思ったより楽しかった。」
その零の顔がとても晴れ晴れとしていて、久志は少し意地悪な笑みをした。
「じゃあ抜け出しちゃえば? 一組くらいいなくなったってバレないよ。」
「……だが仮面が。」
肩から手を離し、零は片手で自らの顔を覆ってみせる。マスカレイドに仮面はどうあっても必需品だ。しかし、久志にその当てはなかった。
* * *
五回のリハーサルを、零と久志のペアは難なく終えた。しかし、悠樹家も咲口家もヨーロッパではそれなりに名の知れた苗字で、特に現在警察長官の悠樹の家の子女とあって、零は大変沢山の挨拶周りと社交辞令を交わす事となった。
「もうやだ。」
ウィーン郊外のアパートの一部屋で、零はそう漏らした。
「まあまあ、今日一日終わったら晴れて自由の身ですよ。」
へらへらと笑いながら、フランス国土リーズ・プーレは零の黒い髪を五分間ブラッシングしていた。零のフェイスメイクもヘアメイクも、全て彼が請け負った。
「終わってウィーンを発つ日には出所おめでとうってメッセージ入れてくれ。」
「嫌ですよそんなの~。正式にはご卒業なんですから。」
手際よく零の髪をまとめながら、リーズは鏡に映る零の顔を見た。一世一代、子息子女の晴れ舞台をこれほどにまでつまらなさそうに待っている女子が未だかつていただろうか。零はそもそも上流階級の面倒臭さを分かっている。故に、上流階級として正式な教育を受けてこなかった彼はその世界を遠ざけがちだった。
「まあ良い体験にはなると思いますよ。」
「もう懲り懲りだ。」
男ならばある程度の好き勝手は出来る。しかし子女はどうだろうか。答えは否だった。良識ある社交的な男性に手を差し伸べてもらうのを待つしかない時代は、相も変わらず続いている。
「……王宮で仮面舞踏会やるんだって?」
「えぇ。エーデルワイスも行ってくるとか。彼もオーパンバルは飽きたらしいですから。僕も暇が出来たら顔でも出しに行こうかなと思っていますよ。」
零は乾いた声で笑った。オーストリア国土らしい言葉だった。
「零さんは行かないんですか?」
「行こうにも仮面がなくてさ。」
顔を覆って上目遣いをしてみせると、リーズは眉を下げて微笑んだ。
「あちら方は動きはないのか?」
「えぇ、今の所は。貴方の体の構造上、向こうも居場所が掴みにくくなっているんでしょう。下手に動けないんでしょうね。」
頭に支給されたティアラをかざしながら、リーズは息をついた。
「今回は社交の場です。僕らもいますが、くれぐれも気を付けて下さいね。」
頭上にティアラを輝かせてくれたリーズに、零は酷く真面目な顔で頷いた。
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