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神秘学メンズラブシリーズ"nihil"  作者:
第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。 』(RoGD Ch.4)

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Verse 4-13

 午後の最後のワルツのレッスンを終えて、零は胸元の汗を拭きながらマリア・テレジアを引き止めた。


「質問ですか?」


「はい。と言っても些細な……私的な事なんですが。」


 マリア・テレジアは眉を上げた。零の顔は、レッスン中の真面目な顔ではなく、実に私的な場面での緊張の抜けた顔であった。


「……バスカヴィルについて、なにか存じあげている事があればと思って。」


「まだあの男の影を追っているのですか?」


 辛辣な一言であった。羽虫にも及ばないと言った風に、マリア・テレジアは扉に身体の向きを戻して鼻を鳴らした。


「……以前、[堕天使]であったルプレヒトがこの第十セフィラに現れたという情報があり、一部の[天使]がとある時代に送られた事がありました。」


 思い出したように、マリア・テレジアは、前に自分が聞いた情報を頭の中で手繰り寄せた。


「とある時代……?」


「えぇ、十九世紀初頭から第一次世界大戦が始まって少し後が、彼らが滞在していた期間です。その時、上流階級に出入りしていた[シシャ]達がかなり頻繁に聞いたと言っていました。……バスカヴィルの名を。」


 零は息を呑んだ。調査に協力してくれたヴァチカンの二人よりも、真に迫った、肉のある話だ。


「彼は上流階級では名の高い催眠術師であったと聞いています。当時は実に神秘主義が流行った時代の一つ。その時代に才を見出したのでしょう。あの大層美しい顔とどこか頑なさを崩した雰囲気を持ってすれば、上流会の名だたる淑女からもさぞや人気が高かったでしょうね。彼は様々な国を渡り歩いて、依頼されては自らの魔術を見せていたそうです。……彼の入っていた魔術クラブ”BEE”、そして、そこを隠れ家にしていたのが……。」


 均一にカールされた髪の毛を僅かになびかせて、マリア・テレジアはそのラピスラズリを思わせる青い瞳を零に向けた。


「世紀の大魔術師、アレイスター・クロウリーだったとか。」




 夕方は、ウィーンの中央街を少し散歩した。敷地の外に出る時は基本的に私服が許されていたので、零も赤いタイトなトップスと細身のレザーズボンという軽装で観光して、ガトーショコラを食べて帰った。ヨーロッパの夏はやはり日が長い。しかし彼の夕食は決まって午後の五時半からだと決まっていた。外食をする連絡も入れていなかったので、時間通りに屋敷に帰って、一人の夕食を終えた。




 オーストリアは楽しいか、というメッセージが入っていた。ジークフリートからだ。毎日、別れ際に零が渡したテディベアとその日の寝床を撮った写真を送ってくれた。彼はゲイだ。だから零が女性になっていた事を知って大層驚いたし悲しんでいた。


(街並みが綺麗だよ、と。)


 それでも、ジークフリートは零への好意を切る事はなかった。知らせた日の夜、返信が来るまで不安で泣いていたのも、今となってはもう古い記憶だ。


『湯浴みの時間です。』


 午後七時にきっかり来るゴーレム達の声で、零は天蓋付きのシングルベッドから起き上がった。この部屋には二つ扉がある。一つは廊下に出る扉、もう一つはトイレへ続く扉。バスタブは隣にはなく、廊下を挟んで向かい側にあった。私服を脱いで、白いワンピースの寝間着に、艶々とした白いサテンのローブを羽織る。ゴーレムにしっかりと留められた髪を全て解いてもらい、一分程ブラッシングされた後に、彼らに連れられて向かい側のバスルームへ行く。バスルームは、よく見るようなバスタブが置いてあるタイプのものではなかった。部屋の最奥に、床を掘り下げた広いバスタブが嵌め込まれているのである。跨いで入るのではなく、階段を降りるように入浴するものだ。半身浴も全身で浸かるのも手軽に行えた。衣類は下着を含めて全て脱ぎ捨てて、それから足首まで浸かりながら入念に身体と髪を洗われた。髪の毛はドライヤーに通さず、大判のバスタオル一枚を使って乾かされた後に、五分くらいかけてブラッシングされる。ふわりと薫る、石鹸に入った薔薇の香りを感じながら、零はそののどかな時間を過ごした。




 就寝は、大体十時から十時半だった。明確には決められていないが、零はそこまで起きるのが限界だった。バスタブでも、うとうとと船を漕ぐ事が多い。その日は窓を締め切ると暑いので、ゴーレムに見張りを頼んで僅かながら開けてもらっていた。


『それでは、お休みなさいませ。』


 ぱたん、と扉が閉められて足音が聞こえなくなると、零は時計を見た。まだ九時だ。ベッド側に置かれたランプが、夏の風で揺らめく。


「よいしょ、と。」


 側に置いていたトランクから、一冊の大きな本を取り出した。


(バスカ、ヴィル。)


 黒い革表紙を撫でる。箔押しされた筆跡から、まるでROZENでの出来事が昨日の事のように思い出された。あの全てを飲み込むような黒く細い髪の毛、零に注がれる、愛おしむ瞳。表紙を開けば、単語の意味が分かっても、その奥深くは理解出来ない文字の羅列が現れた。


(媒体学、夢学、真理学、操作学、催眠学……占学。他にもいっぱい。本当によく分からないものばかりだな……。)


 零はなんとなく、取り敢えず惹かれた項目をなぞった。夢の学問、ただ単に意味を取ればそういう事だった。ページを確認し、その部分を開く。十九世紀では活字での印刷技術が世を跋扈していただろうに、この本はバスカヴィルの筆跡でそのまま綴られていた。


『夢学。この項目では、黒魔術においての夢の研究を説明する。』


 どの項目も、どうやら頭口上は殆ど同じのようだ。零は続きを辿った。


『夢とは一個人が各々持つ世界形態の名称の一つである。』


「はあ……。」


 まるで目の前にバスカヴィルがいるかのように、零は呆れたため息を吐いた。確かに目の前にバスカヴィルなどいないのだが、筆跡のせいかこの言葉はまるでバスカヴィルが隣で読み聞かせにきているような気分に見舞われた。


『故に、その世界には何人も入る事が可能である。世界への入り方は個々による。例。トマソン、鏡、扉、水面、自身が指定したいずれかの境界線、エトセトラ。』


 魔術といえば胡散臭い、そう言えばそれまでである。しかしそれ以上に、魔術とは世の人々の浪漫であった。


『入口は出口である。注釈。自身が指定したいずれかの境界線とは、本人が境界線と定義する物であればあらゆるものが適用される。例。国境、子午線、日の出と日の入り、日付変更、――』


 零もまた、その例に漏れず。


「睡眠と起床等、エトセトラ。」


 * * *


 以前よりも実に意識がはっきりとしていた。分かったのは、それが夢であるという事だけだ。


「私の本は面白かったかい?」


 にこりと微笑む、砂糖より甘い顔。マゼンタともフクシアともつかぬ強いピンクの瞳が、先程まで寝顔だった零を覗き込んでいた。


「っ!?」


 押し返そうとした手は、するりとバスカヴィルの指に絡め取られた。


「今日は随分と可愛らしいね。」


「う、うるさい!」


 ネグリジェの胸元にある細いリボンを摘んで、バスカヴィルはその先に口付けた。長い黒髪が、零の視界の左右を覆う。今気付いたが、零はバスカヴィルに押し倒されていた。


「久し振りに言葉を交わせそうで嬉しいよ。最近研究が行き詰まってしまってね。」


「けん……きゅう?」


 まるで普段から話していたような雰囲気でお喋りを始められ、零は瞠目したまま言葉を繰り返した。バスカヴィルは満足げに微笑む。そして、零の隣の枕に当たり前のように背中から倒れ込んだ。


「いつもならお前に会う時はきちんとスーツで構えている所だが、今はそんな気力もない。」


 ありのままの、着飾らない、謎めいた雰囲気もないバスカヴィルを見たのは、一体いつぶりだろうか。帝國にいた頃さえ、なかなか見せてくれない一つの面であった。


「その、研究って、何だ?」


 目元を腕で覆っていたバスカヴィルは、首を零の方へ回した。疲れたような微笑みだった。若さもセンスもそのままだったが、覇気がなかった。


「お前の傍にいつでもいる事が出来る為の研究だよ。」


 両手をついて零は起き上がる。長い髪が背中を流れた。


「何の研究? 具体的には?」


 きらりと零の目の奥が光った。興味と好奇心、その言葉が、今の零にはぴったりであった。


「難しい事を聞くね、私もまだ分からないんだよ。」


「そうやってはぐらかしてるんだろ、全部教えろよ!」


 ぐにゃりと視界が歪んだ。


「そう興奮すると起きてしまうよ。」


 微笑むバスカヴィルの実に残念そうな顔と、零の輪郭を伝う指の感触だけはやけにまざまざと刻まれた。


「そう、分からないんだよ。」


 脳みそがまるで、上に浮かんで行くような気分だった。


「私にさえ。」


 * * *

毎日夜0時に次話更新です。

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