Verse 4-11
三日後、待ち遠しそうにしていた零は、ジークフリートの手を引っ張って外に出た。少し早めの昼食を済ませて、二人はすっかり雪解け水を飲んだ芝生に足を踏み入れた。
「わはあ!みてみて!」
ロマノフ邸とユスポフ邸を繋ぐ裏の野原。ジークフリートが零の体を[死神]達に受け渡した場所。その芝生はまるで万華鏡のように輝かんばかりの花々が咲き乱れていた。春の陽気と雪解けの雫を受けたその植物達は、まさに地上の宝石であった。
「綺麗だな。」
漸く二人が肩を並べて見る事が出来た、春の訪れであった。
「……あちただね。」
花の甘い香りが二人の鼻をくすぐる。もう暫くすれば、蝶や蜂がこの宝石の上を飛び回るのだろう。
「そう、だな。」
四月十七日。その日は、もう目の前であった。
* * *
ばたん、と車の扉を閉める音がした。いつもの朝、いつもの食事、いつもと違う、玄関の様子。
「零は?」
「少しする事がありまして……お待ち頂けますか?」
玄関で見送りに立っているのはニコライ二世とフェリクスだけだった。ジークフリートは心配そうに、僅かに開いた玄関扉から見える階段を覗く。ちらりとニコライ二世が腕時計を見た。フライトの時間まではまだ十分余裕がある。
「うっ!うっ!」
やがて正面玄関への扉が開く音と共に、零が幼い足で懸命に、箱を抱えて階段を降りてくる姿が見え始めた。
「あれは?」
「まあ見てからのお楽しみですよ。」
謎めいた微笑みを浮かべるフェリクスからニコライ二世に視線を移すが、彼もまたかすかに笑うだけで言葉を返してはくれなかった。
「じーく!じーく!」
さっ、と二人が避けると、その中央から小さな零が姿を表す。両腕に抱いた箱を上に突き上げて、ジークフリートに差し出した。
「あのね、あのね!これ、もってって!」
「これは?」
そっと受け取って持ち上げる。あまり重くはない。リボンで囲われもしていない箱を開けて、ジークフリートは驚いた。柘榴色のテディベア、それは零の誕生日にジークフリートが贈ったものだ。
「もってって!おれのてでぃべあ!」
「どうし――」
零の瞳は頑なだった。その瞳を見てジークフリートは確信する。このテディベアは零の分身だ。自分が傍にいる事が出来ない代わりに、テディベアを傍に置いて欲しいのだ。
「ちょっと待ってろ。」
ジークフリートは後部座席に置いた自分の手荷物を解いた。
「なら、僕のは零が持っててくれ。」
落ち着いた褪せた色の青に包まれたテディベア。零からジークフリートに贈られた誕生日プレゼントだ。
「……わかった。」
零はそれを、強く頷いて受け取った。互いに初めて贈ったプレゼントが、贈り主の手元に戻る。
「また一緒に住める日が来たら、その時は。」
「また、まくらのうえにならべようね。」
黒い車が遠ざかって行く。幼い零にとって、最も寂しい春の日だった。
* * *
十二年後。アルフレッドは額を抱えて深々とため息を吐いた。目の前には、フェリクスと、立派な女子として成長した零。
「……土下座してもいい?」
「いや、そこまではちょっと……。」
そう、零は女子だった。原因は定かではない。恐らく転生の際に選択が間違えられたのだろう。そういう事例は、現在ではよくよく見受けられるようになった。
「いや、これ正直医療ミスだよね……。僕男ってカルテに書いちゃったし。」
「いや、もう少し前の段階のミスですよ。……多分。」
苦笑気味にフェリクスはフォローした。が、アルフレッドの落ち込みようは酷いものである。零とフェリクスは彼を責める事はなかった。余計な仕事を増やしたのは自分達なのだから、アルフレッドのミス一つを追求する気は全くない。
「まあ、そうだね。解決するなら体の性別を変えるべきなんだけど、今零は思春期でしょ? 性転換手術の研究はまだちゃんと進められてないから、不安定な時期の君に、実験みたいな事はさせたくないんだ。僕の我儘だけどね。」
「それは十分承知してるさ。」
アルフレッドは眉を上げた。
「当分、君は女の子のままだ。我慢出来る?」
我慢、と零は呟いた。しかし、耐える自分よりも女性としてこれから生きていく自分に少なからず興味があった。
「ああ、大丈夫だ。」
「なら良かった……。いや、本当に良かったよ、ありがとう……。僕も色々調べてみるから、うん。」
* * *
女装癖を持つフェリクスのおかげで、零の女性としての生活は全く苦労せずに住んだ。下着も、洋服も、フェリクスには抜群のセンスがあった。更に、同じ年頃の女子としてはロマノフ邸にアナスタシアがいた。時たま訪れる彼女の一つ上の姉のマリア皇女も、僅かながら力になってくれた。共にペテルブルクやモスクワに上ってショッピングをしてカフェで話に花を咲かせる事もよくあった。そんな日々が続く、とある春の終わりであった。
「まなー、はうす?」
「えぇ、夏の時期にオーストリア……エリザベート皇后陛下がいらっしゃる屋敷で淑女としての教育を受けてらっしゃいって。あそこのお家、要するにオーストリア帝国の方々は、人間界で私達の隠れ家を提供する傍にマナーハウスを経営してらっしゃるの。それで……一緒にどう?」
最後の言葉は、秘密の会話をするように潜められた。
「い、いいけど……俺みたいながさつ者が行ったら門前払いじゃないのか?」
「大丈夫よっ!そこはフェリクス公にお手紙書いてもらうんだから……!!」
どうやら、アナスタシアは一人で行きたくないらしい。顔からありありとその感情が出ていた。寄せられた眉、迷惑そうな瞳、への時に曲がった唇。その短い生涯でお転婆娘と言われたアナスタシアに、社交界の教育とは実に狭苦しく、窮屈であった。
「で、そのマナーハウスは何時終わるんだ?」
「ヴィーナー・オーパンバルって知ってる? 二月の灰の水曜日に行われるダンスパーティ。あれのデビュタントで踊るのが卒業みたいなものよ。」
女性は白のイヴニングドレス、男性は黒の燕尾服。ウィーン国立歌劇場で行われる最も格式の高いダンスパーティだ。
「遠慮するわ……。」
「え~どうして!? フェリクス公は絶対に行かせたがると思うわよ?」
自分がそれに参加すると、参加しないにしても想像しただけでげっそりとやつれ衰えそうな気分であった、ああいう舞台に自分は似合わない、女性であるならば尚更、と零は肩を落とした。
「聞いてはみるけど……。」
「絶対よ!約束ね!」
サモワールの隣で、アナスタシアは強く零の細い手を握った。
ヴィーナー・オーパンバル。零も知らない事はないし、むしろ一般人よりはある程度深い見聞を持っていた。フェリクスが数年に一度そちらに出かけて、屋敷に一人で過ごす事があった。出ない年は、テレビで生中継を見て参加している面々をチェックしている事もあった。
「成程。突然社交界に興味を持ち始めたのかと思ってびっくりしましたが……。それにしても、アナスタシア殿下がマナーハウスに、ですか。」
零は社交界に無関心なほうだった。ネットワークは張っているが、直接的にではなく間接的にだ。上流階級は良くも悪くも裏社会と繋がっている事がある。そこを利用しない手はなかった。
「俺も突然切り出されたからびっくりした。」
煌びやかなドレス、お淑やかな人々、輝きで目も潰れそうなダンスホール。零も憧れないわけではないし、経験もあった。しかし、好きかと言われれば、遠くでただ眺めていたいだけの光景だ。
「……僕は構わないと思いますよ。上流階級もまた、経験して損はない世界の一つです。ヴィーナー・オーパンバルに関していえば、主が知っている面々も参加してらっしゃいます。」
夕食のタラの身を解いて、フェリクスはニッコリ微笑んだ。
「ほ、本気で言ってる?」
「えぇ。なにより、淑女としての教養は多くの場所でその真価を発揮します。それに、主は決してがさつものではありません。貴方はダイヤの原石のようなものです。生前、国王に仕えていただけあって下地はきちんとしておられます。」
なんとなしに、零は自分の、じゃがいもを頬張る頰を撫でてつねった。
「僕からも手紙を出しておきましょう。夏でしたよね?」
「あぁ、詳しくはアナスタシアに……って待って、本気で行かせるつもりなのか!?」
ゴーレムが持ってきたToDoリストになにか書き加えて、フェリクスはにこにことそのまま言った。
「勿論ですとも!素敵な淑女になられる事を期待して待っておりますね。」
* * *
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