Verse 4-9
翌日、ジークフリートに一本の電話が入った。無視していたベルが、フェリクスを通じて手渡された。
「変わりました。」
『リチャードだ。』
相手が聞こえた瞬間、ジークフリートは息を呑む。
「……早過ぎないか?」
『それは私も思っている事だ。だが……、お前が外れた事を向こう方が察知した。』
[人間]の感覚で半年以上。それだけあれば、敵方が人員減少に気付くのは想像するに容易い。ジークフリートは震える吐息を吐き出した。
「どうしてもか……?」
『……どうしてもだ。フライトはそちらで準備している。それで帰ってくるよう。』
背後で、フェリクスが密やかに呼吸を繰り返している。心配そうな視線が背中に刺さる。電話は一方的に切られて、ジークフリートは振り返った。
「……帰還命令だ。」
白銀の重なるもみの木が実に美しく飾り立てられた、ロシアのクリスマスの夜であった。
* * *
冬が盛る二月。アレクセイに連れられて、零はスケートに飛び出していった。ジークフリートとフェリクスは、その後に暖かい紅茶の入った魔法瓶を持って外に出る。
「やーこわい~!」
「えへへっ、思ってたより苦手なんですね!」
アレクセイの両手を掴みながら、零は目を細めて氷の上を辿々しく滑っていた。鼻はもうすっかり赤い。フェリクスが編んだ手製の緑色の毛糸帽には、零の名前が卵色の刺繍で入っていた。
「うっうっ。」
「少しずつ慣れれば大丈夫ですよ~!」
背中を見せる為に、アレクセイが一度零の手を振り解くと、零は、ぴえ、とか細い声を出して直前と同じ体勢で固まっていた。
「腰が引けてるんですね。」
「可愛いな。」
後ろ手に組まれたアレクセイの手を掴むと、零が引っ張られていく。湖面をすいすいと滑るアレクセイは、弟が出来たような気のいい顔で滑っている。
「お二方とも、紅茶を淹れたのですが如何ですか?」
アレクセイが二人を見とめると、フェリクスは手に持った魔法瓶を振りかざす。アレクセイもすっかり冷え切っていたのか、大きな声を出した。
「飲みます!」
アレクセイの体に隠れていた零は、そのままぶんぶんと首を縦に振っていた。
「あぁしゃむい、しゃみよ。」
スケート靴のブレードにカバーを被せると、零とアレクセイは湖面のすぐ傍にあるベンチで寛いだ。フェリクスとジークフリートから魔法瓶のコップを受け取り、赤くなった鼻を湯気で溶かす。
「久し振りに思う存分滑りましたよ!」
「それは良かったです、ここ最近は雪かきをサボってましたからね。」
近年に比べて豪雪と言える日は殆どなかったが、それでも放っておけば雪が積もる。二つの屋敷はそのおかげで、ここ最近裏手の庭や野原に出る事が叶わなかった。
「まあ、雪かきはいっぺんにやるのが一番効率的ですから。」
カモミールの香りがする紅茶を、アレクセイの隣にいた零は渋い顔でちびちびと飲んでいた。
「うう、もうしべりゃない……。」
「おやおや、そんなにお嫌いになったんですか?」
眉を八の字に下げる零が面白くて、アレクセイは紅茶を溢さんばかりに笑った。
「僕が強引だったんですよ、きっと!」
「なら次はじゃあ僕と滑ってみましょうか。」
やだ、と虚空に向かって叫んで、零はたかる蝿を払うように首を横に勢いよく振り続けた。振ってる最中に見えたフェリクスやアレクセイよりも鮮やかな金髪で、零は思い付いたように頭を止めた。
「あっ!じぃくなら、すべる!!」
「えっ……。」
フェリクスは少し気まずそうな顔で零の後ろにいたジークフリートに視線をやった。
「いいぞ。僕と滑ろうか。」
「ほんと!?」
いつものように微笑んで、ジークフリートは持ってきていたスケート靴を見せた。
「ほんとだ。」
足をぶらつかせて喜ぶ零の横に座って、ジークフリートもスケーツ靴をいそいそと履き出した。
「じゃあ公爵は僕と滑って下さいね!」
「えぇ!? ま、任されました!」
横ではしゃぐアレクセイと慌てるフェリクスを見送って、ジークフリートは零の小さな手を取った。
「そんなに怖がらなくていいんだ。割れやしないし、転んだって大怪我する程のスピード出すんじゃないからな。」
「は~い!」
喜んでにこにこと滑る零の足は、最初こそ生まれたての子鹿のようにおぼつかなかったが、段々と立てるようになっていた。
「あのね、あにょねじぃーく!」
「ん?」
自分で足を動かし始めた零は、満面の笑みで、目を爛々と輝かせながらジークフリートの顔を見上げていた。
「じーくね、おえのおにーちゃん、ぽい!」
「……お兄ちゃん、か。」
懐かしい響きだった。その名前では、特にこう温かみを持った兄という名称は生前以来呼ばれていない気がする。
「いとこでも、いーよ!」
「そうか。」
いつもより口数が少ない事は自覚していた。今から、帰還する前日からの行動を頭の中でずっと考えていた。もう一ヶ月、いや半月も猶予はなかった。零にバレないように、隙を見計らっては箪笥の中のものをスーツケースに詰め始めている。
「えへへ、じーくとまいにち、たのちい!」
「僕も楽しいぞ。」
やった、と純粋の微笑むなにも知らない零を見て、喉が焼き付きそうになる。零と別れる、それがなにより苦しく、そしてその未来を、電話を受けるまで憂慮しなかった自分自身が実に馬鹿らしく思えた。
* * *
ささやかな陽の光が、瞼を温めた。少し寒くて毛布を手繰り寄せて右に動く。いつもある筈の窓側の壁が、その日だけはなかった。
「……う?」
零は起きた。カーテンは僅かに空いている。春をかすかに知らせる三月の日差しがあった。隣はもぬけの殻だ。温もりのないシーツと枕が、忽然と存在していた。
「あ、あれ?」
いつもなら起きると同時に零を起こすジークフリートの姿が、今日だけはなかった。零は跳ね起きた。ベッドから飛び降りて、バスルームに耳を立てる。なんの音もしない静けさだけがあった。慌てて、暖かいネグリジェのまま扉の前に立つ。零の背丈では扉は開けられない。
「だぁれかあ~!だれかぁ~!」
拳で激しく扉を叩くと、慌ただしくゴーレムが廊下を走ってくる足音が聞こえた。ドアノブが捻られると、零は一目散に寝室を飛び出た。この屋敷は全てにおいて、玄関ホールを経由するのが一番アクセスが良いのだ。その体格ではあまりに長すぎる廊下を走って、零は階段を転げるように降りた。玄関ホールだ。黒と白の、チェス盤のような大理石が床を埋めている。
「あっじーく!」
上半分にガラスがはめ込まれた両開きの玄関扉の取っ手に手をかけるジークフリートを見とめる。脇にいたフェリクスは、目を丸くして振り返っていた。
「どこいくの!?」
大荷物だ。両手にトランク、コートはいつもの防寒コートではなく、旅行用の少し厚手で丈夫なコート。
「どこどこ、おえもつえてって!」
「それは……それは無理なんだ、零。」
トランクを運転手になるゴーレムに渡して、ジークフリートはコートを引っ張る零と視線を合わせる為に屈んだ。
「なんで!」
「帰らなくちゃ、いけなくなったんだ。」
それを伝えた時の零の顔を見たくなくて、ジークフリートはなにも伝えずに屋敷を出ようとした。勿論、零に怒られるのは覚悟の内で。予想通り、零の顔は悲しげだった。瞠目して、瞳はジークフリートの左右の孔雀色を見る為に揺れて、コートを掴んでいた手は緩んでいた。
「……どちて、いってくれなかったの。」
「零の、その顔が見たくなかった。」
弾かれるように零は顔を上げた。複雑な顔だ。怒りも出来ず、言葉を飲み込んで悲しみに満ち満ちた表情だ。
「ずっと、じゅっといっしょにいてくえゆっていったのに!」
なにも返せる言葉がなかった。真っ直ぐに見返す正直なジークフリートの瞳が痛くて、零は後ろについてきていたゴーレムを振り返った。
「おまえ!でんわ、もってきて!」
ゴーレムは礼もそこそこに一目散に退散する。
「主よ!」
「いいの!おれが、りちゃどに、いうの!」
数分経って戻ってきたゴーレムから受話器を奪い取って、零は子供とは思えない素早さでダイヤルを回した。
『はい、リ――』
「このやろ~!なんいぇ、おえに、ひとこともないんらよ!!」
成長していない舌足らずな怒声に、受話器の向こう側は一瞬で黙った。暫くの沈黙の後、実に恐る恐る相手が尋ねる。
『……零か?』
「そーあよ!ほかに、だれがいるんだ~~!!」
深々と盛大なため息が、ジークフリートとフェリクスにも聞こえた。
『零それは――』
「うるしゃい!やだやだ!じーくおれの!!」
玄関先の二人に背は向けていたが、それが震えている事は火を見るより明らかだった。
「やだ!やだ!!」
『零、ジークフリートに変わってくれ。」
ぐす、と鼻をすする音と共に、零はもう一人のゴーレムに受話器を渡して、その場でへたり込んだ。
「ジークフリートだ。」
『……一日の滞在を許す。以後の対応は、明日通達を。』
毎日夜0時に次話更新です。




