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神秘学メンズラブシリーズ"nihil"  作者:
第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。 』(RoGD Ch.4)

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Verse 4-2

「た~べ~た~い~!」


「駄目だって、これはカロリーが高過ぎるから!」


 ふくふくとした頰を更に膨らませて、零は久志の手にあるものを飛び跳ねながら取ろうとする。


「いとくち!」


「駄目。」


 今久志の手にあるのは、ストロベリーのムースケーキであった。旬である春の限定商品である。


「いといぢめよくない!」


「僕は零君の身体を考えて言ってるんだよ!?」


 椅子によじ登る零を見て、久志は慌てて台所から逃げる。卓袱台では確実に今の零は手が届く。考えた結果、二階の洋室しか食べる場所がなかった。


「え~んいぢめゆ~!」


「大きくなったら一緒に食べようね。」


 零はまだ階段を登れない。久志は踊り場のテーブルにケーキを置くと、階段を降りて台所の椅子の上で立ち往生する零を抱き上げた。


「降りられないのに登っちゃいけないよ。」


「う~……。」


 地面に降ろされて、零は素早く台所を出て居間へ走っていった。いつもなら煎餅を置いているのだが、零が物欲しそうにそれを見るようになってからは台所の棚にしまうようになった。


「よーのゆーしょくなあに?」


「今日はお雑炊ですかね~。」


 居間では博人がレシピ本と睨めっこしながら夕食の献立を決めていた。


「おじょーすいだけ?」


「ほうれん草のおひたしかな。」


 おー、と声を上げながら、零は博人の隣に立って一緒にレシピ本を眺め始めた。立ちっぱなしの零を見かねて、博人は胡座をかいた脚の上に零を座らせた。


「おりょーり、おりょーり。」


 肘をつきながらページを捲ろうとすると、まだ全て読み終わってないのか零はその手を軽く叩いて止めさせた。


「漢字読める?」


「よめりゆ~。」


 すらすらとは言えないが、零の瞳はきちんとレシピの文章を追っていた。それを微笑ましく見つめながら、博人も同じページを読み返す。


「こないだは、おかしのほんよんらよ!」


「お菓子の本面白かった?」


 継子の趣味の一つに料理があった。その為、台所の棚の一つには沢山の料理本が、和食や洋食などのジャンル別に所狭しと並んでいる。久志も博人も、そのおかげで悠樹邸の献立に事欠かなかった。


「きらきら、だった!」


「きらきらかぁ。」


 つい先月も、零は台所の一番下にあるフランス菓子の本を引っ張り出しては、恐らくまだ読めないだろうフランス語を飛ばして写真を眺めていた。フランス菓子のレシピ本の魅力は文章ではなく写真だ。久志は以前そんな事を呟いていた。


(まあフランス料理も京料理も一種の芸術の域だしなぁ。)


 読み終わったのか、零は博人のページを捲る手から手を離した。次のページはブリ大根とまぐろ丼のレシピだった。


「まぐよ~。」


「博人、ちょっといい?」


 本から目を離すと、暖簾を押しのけて勇斗が居間に顔を出していた。


「どうかした?」


「大佐が帰ってきたんだけど、書斎に呼んでこいってさ。零さんはそのまんまでいいって。」


 胡座の上で足をぶらぶらさせながらマグロ丼に見入っている零の頭に視線をやって、博人は再び顔を上げた。


「分かった。ちょっと待ってて。」


 写真を眺めていた零を抱き上げて、博人はレシピ本を床に置いた。


「ちょっとお話ししてくるから、読んでていいよ。」


「あ~い。」


 先まで博人が座っていた座布団にごろんと転がって、零はレシピ本をじっと見つめ始めた。そのまま居間を後にして、清張が待つ書斎へ駆け足で上がる。


「遅れました。」


「いい、座れ。」


 扉を開けると、既に全員集まっていた。史興と久志が座っているソファーの隣に、空いている椅子がある。


「それでお話とは?」


「零の引取手の事だ。」


 清張は病院でアルフレッドから渡された薄桃色の便箋をデスクに置いた。


「ロマノフ邸にするつもりだったが、アルフレッドから今日この手紙を渡された。ユスポフ邸に……零を預けようと思う。」


「よろしいのですか? アルフレッドさんはニコライ二世陛下のほうが友好関係が深いですよ。」


 史興の進言に、清張は息を吐きながら封筒にエンボスされた艶やかなリボンをなぞった。


「最初は……そう思っていた。零の為にもアルフレッドと最も親しい所に置いたほうが安全だと。だが……これはアルフレッドや俺の問題ではない、零が主役の問題だ。」


 あぁ、と四人は声を漏らしてお互い視線を交わらせた。


「確かに、零はロマノフ邸に縁がある。だが、零が本当にロマノフ邸で暮らしたいと言うかといえば、ユスポフ邸のほうが慣れ親しんでいるだろう。」


 手紙から目を離し、清張は四人の顔を順番に見た。全員が唾を飲み込む。


「それでお前達の意見を聞きたい。」


 史興は考え込むように腕を組み、博人と勇斗は小さな声でなにかを話し合い始めた。久志は足を組み直して、膝を両手で抱えた。


「大佐の言葉は確かに一理あります。ですが、僕らは意見出来るほどユスポフ公を知りませんし、まだ一度も会った事がありません。」


 出来ればお会いしたいところですが、と久志が呟くと、清張の斜め後ろで沈黙を守っていた継子が口を開いた。


「会う機会があるのは、零を引き取りに来る日くらいだろうけど……。」


「その前に数日泊まって頂いては?」


 博人の言葉に、清張は再び手紙に落としていた視線を上げた。博人は続ける。


「そのほうが零さんも、向こうへ行く事について考えられますし、師匠も俺達もユスポフ公について観察する事が出来ると思うんです。」


 全員の視線が、次に久志に集まった。ロシア帝国随一の財を誇ったフェリクスをもてなせるのは、旧財閥一家の御曹司の他にいないだろう。


「ぼぼぼ僕ですか!? 財界からはずっと離れてますけど!」


「他に適任はない。頼んだぞ久志。」


 一方的に、意見する間もなくそう言われて、久志は、はあ、と頷いてしまった。


 * * *


 悠樹邸は貧相というわけでは決してなかった。しかし清張はあまり大きな屋敷は好きでなく、悠樹邸も建物は小さい。その代わりに庭はその何倍も広く、かつ四季折々の麗しさがあった。


「ユスポフ公はクリミアなどに大豪邸を持っていらっしゃったとか……。」


「かつてのお話ですよ。僕にはペテルブルグのモイカ宮殿で十分でした。」


 零が一人で立てるようになった年の秋、フェリクスは清張に呼ばれて悠樹邸を訪れていた。はらはらと落ちる黄金と茜の葉々を眺めながら、秋の涼やかな空気を吸い込んだ。


「日本では赤く色づく葉があるんですね。ロシアも、黄金の秋といって見事な紅葉が見れますが、全て黄色なので少し新鮮です。」


「この庭は春夏秋冬、いつの時期でも目が楽しいですよ。もしまた見たくなったら、是非いつでもいらしてください。」


 久志がにこりと微笑むと、フェリクスもまたそれに答えて微笑む。


「咲口さんは財閥の御曹司だったとか。今も本邸は自分で管理なさってるのですか?」


「持ってはいますが、住んではいないので改築するなら時間がかかります。今は悠樹邸の近くに所有していた家に住んでいますよ。」


 成程、とフェリクスは黄金の吹雪の主人である銀杏の木を見上げた。秋は限りを知らずに吹雪を生み出すが、冬になればその一切の葉は剥かれてしまうのだろう。


「公爵は何故零さんの引き取り手に?」


 少し後ろを歩いていた久志は、フェリクスと肩を並べて銀杏の木を仰ぐ。フェリクスは瞳だけを久志の方へ動かして、またすぐに銀杏に視線を戻した。


「陛下から要請があったのは事実です。ですがそれ以上に、僕の身勝手な後悔からでもあります。」


 久志は顔を前に戻した。雀達が銀杏の葉を散らかして遊んでいる。


「彼が屋敷で亡くなって、それ以後やるせない気持ちがどこかでつっかえていたのです。人はいつか死ぬものであるし、主は特にそういう体でいらした。だから後悔もなにも必要がないのは分かっています。それでもただ、ただもう一度屋敷に来て何気ない日々を過ごして頂ければと。……ユスポフ邸はいつも寝静まったように静かでしたが、主が来てからはどこかに温もりがありました。人が屋敷を訪ねてくる事も増えました。手紙のやり取りも含めて。」


 寂しげな微笑みを、久志は心配そうに覗き込む。ユスポフ家の者はなにもフェリクスだけではない。歴代の家族も[シシャ]としてこの世界に存在している。それでも、人間界で邸宅を切り盛りしているのはフェリクスだけだ。


「孤独だったんですね。」


「家族もたまには来るんですが、人間界の時間ではなく[シシャ]の時間で生きていますから本当に珍しい。それに、家族と交友があるのは生前となにも変わらない。家族の幅が広がっただけです。僕にとって、その生活には色がないんですよ。ソヴィエトの末路と同じ、安定を求めて成長がないのです。」


 フェリクスは久志に顔を向けた。


「主は本当に偉大でいらっしゃいますね。」


 * * *

毎日夜0時に次話更新です。

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