Verse 3-12
その日のユスポフ邸は酷く慌ただしく、必死の形相でやってきた来客に対して、失礼と分かっていて笑いが漏れてしまった。
「いや、申し訳ありません。この屋敷でこんなに騒々しいのは初めてだったので。」
「そ、それは申し訳ない事を……。零も病気なのにこんなに五月蝿いんじゃ休めないよな……。」
叱られた、いや自省する犬のようにしょぼくれるジークフリートに、フェリクスはもう一度吹き出してしまった。
「いいえ、僕も明るいのが大好きですから。それに主は今は起きてらっしゃいます。」
「そうなのか?もしかして先客が?」
階段を登ろうとして、ジークフリートは少し惑いの表情をする。
「大丈夫です、先客は主のお父上ですよ。」
「あぁ、悠樹の。」
それなら、とジークフリートは再びレッドカーペットを踏みしめる。
「手紙を出すのが遅れてすみません。一刻も早くお二人にはお知らせしたかったのですが……。」
「仕方がないさ。アーサー達に見つからない為にも、普通の国際郵便は最善の手だ。」
心苦しそうにフェリクスは目を伏せる。
「このような時まで敵方に知られないように最たる手段を尽くさなければいけないなんて……、主の境遇が思いやられます。」
窓の外にはロシアの春の兆しが見え始めていた。雪解けだ。
「……零は、春を迎えられないのか。」
ジークフリートは太陽より遠くを見るような眼差しで風景を見た。欧州の春は、日本の春とはまた別の意味で美しい。朝はまだ小さかった花と葉が、一斉に芽吹くのだ。色のなかった風景は、昼を迎えると一瞬にして極彩色の風景になる。その光景たるや、宝石がたっぷりと散りばめられた貧相な箱の中といっても過言ではない。
「一体どうすれば……救えたんだろうな。」
「分かりません。それはだれにも……主自身にさえ。」
ジークフリートはフェリクスへ視線を動かした。彼もまた、瞳を鏡のようにして春を迎える準備を着々と進めるロシアの風景を眺めていた。
扉が開き、零は清張の手を握ったままそちらを見た。
「フェリクス……。……とジークか。」
先に部屋に踏み込んだジークフリートは振り返った。フェリクスは頭を縦に振る。
「零、僕だ。」
清張の隣の席に座り、零のもう片方の手を握る。
「ジークだな、分かるよ。」
微笑む零は、今ははっきりジークフリートを見ていた。泣きそうになるのを堪えて、一瞬だけ笑いかけた。零が一層微笑んだのを確かめて、ジークフリートは清張の顔を見た。
「挨拶が遅れました、お久し振りです。」
清張は頭を軽く下げるだけだった。ともに零の顔へ視線を戻す。清張の口が、一層引き結ばれるのが分かる。
「二人が一緒の日に来るなんて思わなかったな。お菓子を用意して貰えばよかった。」
「労わんでいい。顔を見に来ただけだ。」
清張のふてぶてしい口調に、零はジークフリートを見て肩を竦めた。
「ゆっくり話したいが、お前の体に障るだろ?」
「俺の体なんて今はどうでもいいんだ。そんな事より、今は皆と出来る限り長く話したい。」
零の手を更に握り、ジークフリートは俯く。以前繋いだ時より、零の手はより骨ばって細く、小さくなったように思える。
「また会って、いくらでも話せるのは分かってる。でも……タイムリミットがあるなら、それを存分に使いたいんだ。」
「零……。」
泣きそうになっていたのを堪えて言葉を紡がずにいたのが、ジークフリートは思わず愛する人の名前を呼んでしまった。清張はその横顔を見ると、立ち上がった。ただ無言で、ジークフリートの肩を一度だけさすって寝室を後にする。
「もういいんだ零。今は、今はゆっくり休んでくれ。頼む……後でいくらでも話せるなら、せめて今は……。」
「ジーク。今出来る話と、後でいくらでも出来る話は、絶対に違う。」
弾かれたようにジークフリートは零の顔を見た。涙の珠が宙に一滴だけ舞う。
「死に際の会話なんて、これから半永久的に俺達は出来ないんだ。この機会を逃したくない。」
真っ直ぐに見つめられて、ジークフリートは零の瞳から目が離せなかった。ただ淡々と紡がれる、身を刻まれるような言葉に耳を傾ける。
「もっとちゃんと感じて、刻んでおきたいんだ。死というものを。」
ジークフリートは息を吐いた。これは決して零にとってただ単なる区切りの一つではないのだと知った。これは零にとって確実に死であり、一つの終わりの形なのだ。
「どうしてそこまで……そこまで死ぬ事に拘ってるんだ?僕らは一度どころか二度も死んだのに。」
「ジークは覚えてるのか?生前も、帝國でも、なにを思って、死の寸前までなにを考えて死んでいったのか。」
覚えているわけがない。そんな記憶など朧げだ。人間にとって死とは恐怖であり、真っ先に忘却に葬るべき対象だった、毎日死について考えて生きる人間など、ごく一握りに過ぎない。
「俺は、[シシャ]であるのに死ぬ。これまで齎してきた死と、これから齎すであろう死の重さを身をもって知るべきなんだ。」
「そんな理由で……そんな理由でお前は……[人間]なんて僕らにとってただの他の動植物と同じ家畜に過ぎない対象だぞ!?」
骨ばった零の肩を掴みジークフリートは身を乗り出して零の体を揺すった。
「ジーク。[人間]の存在はそういうものじゃない。」
宝石のように輝く瞳を覗き、ジークフリートは眉を上げた。
「在りし日の俺達[シシャ]なんだ。俺達が愚かだったように、[人間]も愚かで、俺達もまた愚かなんだ。愚かしいから俺達は歴史を変えようとし、愚かしいから俺達は[人間]を生み出し、指先一本で殺す。愚かしいから、俺達はその愚かさを傲慢にも救おうとする。」
ゆっくりと薄く息を吐いて、ジークフリートは肩を掴んだ手に込めていた力を緩める。
「[人間]がいなくていいなら、俺はとっくの昔に彼らを滅ぼす事が出来た。なんの為に今まで足掻いてきたんだ。」
諭すように、零はジークフリートの涙が伝う頰を撫でた。
「生み出して生かし続けたのなら、俺達にはそれを守り続ける責務がある。守り続けるには、生存を侵そうとする[人間]を殺す必要がある。俺は、それをしなくてはならない。」
浮かせた腰をベッドに放り出し、ジークフリートは鼻先が触れるくらいの距離で零を見つめる。
「だから知るんだ。明瞭に。死というものを。」
気丈だ、とジークフリートは思った。それと同時に、歴史に名も刻まれなかった男に耐え切れない重荷というものを感じた。
「……怖いんだろ、本当は。」
より細くなった零の体を抱き締めて、ジークフリートはその頭を撫でた。
「悠樹零という男には、身に余る受難だ。」
零の息が掠れるのが分かった。体が震え、湿った息が歯の隙間から溢れる。
「約束する。お前の五感が全て失われても、僕は絶対に隣にいる。仕事なんて知った事か。毎日ここに来る。お前が僕の事を分からなくなっても。」
「ジー……ク。」
上着の袖を握って、零は声を殺して涙を流した。一体どのくらいの時間そうしていたのか、ジークフリートには分からなかった。一つだけはっきりしていたのは、追い詰められて拳銃自殺したあの日、レイもまた、今のように自分の骸を腕に抱いてくれたような記憶が、ほんの薄く片隅にあった事だけだった。
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