Verse 3-10
一昼夜続いた吹雪の後、漸く先日までの白んだ陽光が白銀の世界に再び降り注いだ。
(まだまだ外は寒いな。)
日本では桃が咲き始める頃合いだが、ロシアにはまだ春の兆しは見えない。膨らんだ蕾も、芽吹く葉々もなく、針葉樹の森が淡々とロシアの寒風に揺らめいていた。
「大気が安定しないので、本日も昼過ぎからは猛吹雪だそうですよ。」
零の斜め後ろに立ち、フェリクスはカーテンをそっと上げた。
「なら今日も殿下の所には行かないほうがいいか……。」
「残念がられるとは思われますが、仕方ありませんよ。」
今ロマノフ邸に行っても、さして長い時間いられるわけではない。零は窓の金具を外した。
「寒いですよ。」
「少し冷たい風に当たりたい。」
屋敷の中は、暖炉ががんがんに焚かれていて暖かかった。暖かいどころか、零の頭がぼうっとするほど暑かった。
「日本でもやはり雪が?」
「東京は一年に一回くらいしか降らないけど。」
窓枠に積もった雪を握り、だれもいない銀の野へ放り投げる。いまいち長く飛んでくれなかった。
「なら雪が降る日は大層寒いでしょう。」
「[使徒]の皆なんかは石油ストーブの前でダンゴムシだな。」
零の表現にフェリクスは吹き出して、声を出しながら笑った。
「それは可愛らしいですね。いつかお邪魔したいものです。」
一際強い風が屋敷の中に冷たい空気を運び入れて、フェリクスは慌てて窓をきっちりと閉めた。窓の木枠にかかっていた零の指先は、雪を握りしめたせいで真っ赤になっていた。
「さあ、暖かい部屋に行きましょう。体を壊してしまいますから。」
差し出された手に、零は笑いながら手を置いた。フェリクスの手はとても暖かい。雪で少し濡れた手を拭いながら、零はフェリクスに連れられて廊下を歩き出した。
その日もまた、なにごともなく一日が終わりを告げようとしていた。しかし、フェリクスは久し振りにボルシチを掬いながら零の顔を覗く。
「主よ、お加減が優れませんか。」
「……いや、別に。どうしてだ?」
ロマノフ邸の畑で採れたビーツで真っ赤なボルシチを口に運びながら、零は向かい側に座るフェリクスを見た。
「いえ……顔色がいつもよりずっと悪いので。」
ボルシチを食べ終えて、フェリクスはその皿が下げられると共に席を立った。
「失礼致します。」
次の皿を運ぼうとしたゴーレムを手で制して、フェリクスは零の席のすぐ側で屈んだ。
「……やはり。体が全く温まっていません。」
「そもそもが低体温なんだ。」
フェリクスは零の顔をじっと見上げる。蒼白を通り越して色もない零の顔は酷いものだった。
「やはり昨日のが身に応えたのでは……?」
頭を振って、フェリクスは立ち上がって零から離れた。先程の向かい側の席に戻り、ゴーレムが運んできたラム肉のステーキの為に銀食器を手に取る。
「……ボルシチのお味は如何ですか? 今日はスメタナを多く入れたんですよ。」
「そうなのか? ……今日のはいつもより味が薄いな。」
ラム肉にナイフを入れようとしていたフェリクスは、思わずその手を止めた。
「そんなに薄いですか?スメタナ以外の分量は全ていつもと一緒の筈ですが。」
「そうか?全体的に料理の味が薄いというか。寒いとこにいたから味覚が変になったかな。」
震える手で、フェリクスはゆっくりとラム肉を切り始めた。その顔にいつもの微笑みはなく、フェリクスはかすかに息を吐いた。
くぐもった声はとても落胆していた。
『進行が早いね。僕としては当分後だと思ったんだけど。』
「申し訳ありません。僕の監督不行き届きで。」
貴方は悪くないですよ、と受話器越しに医者は言った。
『近々そちらに行っても構いませんか?」
「構いません。むしろ今すぐにでも来てほしいです。これからロマノフ邸には行かせないようにしますので。」
コードを指に絡めながら、フェリクスは眉を寄せながらそう言った。分かりました、という言葉と共に、受話器が降ろされる。フェリクスもまた、持っていた受話器をゆっくりと置いた。
* * *
その日、零はフェリクスの屋敷にある書庫で安静にするようにとゴーレムから伝えられた。
『病状について。味覚、嗅覚、視覚、聴覚、触覚の順に失う。死亡は免れ得ないと考えられる。』
キャップをした万年筆で耳の後ろをなぞりながら、フェリクスは大きく長いため息を吐き出した。肘掛に腕を委ね、天井を見上げていた瞳を閉じる。
『フェリクス様。』
「いらっしゃいましたか。」
音もなく扉の前に立っていたゴーレムに声をかけられ、フェリクスは重い腰を上げた。長い民族調のローブを手で払って、執務室を出る。いつもこの屋敷は静かだ。しかし、零が来てからは少しだけ、弱々しくも温もりが増えた気がしていた。
「アルフレッドさん。」
階段を下がり玄関ホールを見下げると、落ち着いた橙色の髪の男が外を見ながら立っている。吹雪ではないが、外ははらはらと雪が舞っていた。アルフレッドが着ていたキャメル色のダブルロングコートにも、所々粉雪が残っている。
「ユスポフ公。零は?」
「ベッドでは飽きるというので苦肉の策で書庫に……。一応部屋を温めてはいますが。」
やれやれ、とアルフレッドは頭を振った。医療用具が入った鞄を持つと、フェリクスが手を差し出しながら書庫への道を歩き出した。
置いてあったランタンの灯りが一瞬だけ揺らめいた。はっと我に返って、零は顔を上げる。見知った親友の顔だ。
「理由は分かるよね。」
ぱたん、と本を閉じる音が書庫に響き渡った。俯いて目を逸らし、零は肩を落とす。
「分かってる。」
怒気を孕んだ顔でじっと零を見ていたアルフレッドは、数分後に気苦労の絶えなさそうなため息を吐き出した。
「君の寝室に行こう。診るから。」
ゴーレムに本の片付けを頼んで、零はゆっくりと立ち上がる。雪を触った時だけではない。既に暖炉に当たっていなければ一日中指先や爪先が冷え切っていた。書庫の扉のすぐ傍で待っていたフェリクスの手にはトレーが握られていた。トレーの上にはハーブティーの入ったティーポットや空のカップが置いてある。
「ただの診療では寂しいでしょうから。」
トレーを僅かに上げると、アルフレッドは予想していなかったとばかりにティーポットをじっと見つめていた。
「……まあいっか。零は?」
「飲む。」
嬉しそうに微笑んで、フェリクスは、では、と言って寝室に向かう二人の背中をついていった。
ワイシャツを掻き分けて出てきた零の肢体は以前よりもずっと細く見えた。肋骨も僅かに浮き出し、息をめい一杯吸えば骨の形がよく分かるまでになっていた。
「脈も以前よりずっと弱いし、心臓も弱ってるね……。紅茶飲んでる時に悪いけど便通は?」
「……分からん。でも前よりトイレに行かなくなったかな。」
前髪を上げて自らの額を撫でて、アルフレッドは再びため息を吐いた。
「平均体温もだいぶ低い……なにより三食食べてるのにこんなに痩せてる。」
カルテに書き込んだ情報を確認しながら、アルフレッドは肩を落とす。なぞった項目を見つめて、零に視線を戻した。
「……悪いけど、多分君の先はもうそう長くない。」
覚悟をしていたのか、それとも死を体験しているからなのか、零は悪い顔色を一つも変えずにアルフレッドを見ていた。そのガーネットのような煌めきが眩しくて、アルフレッドは深緑色の瞳を少しずらした。
「公、病状について話は?」
「まだ一切しておりません。」
鞄の中にいれていた四つ折りの紙を取り出して、アルフレッドはバインダーに挟んだ。
「味覚、嗅覚、視覚、聴覚、触覚。この順番で君は多分五感を徐々に失っていく。保って一ヶ月か一ヶ月半……。今のままで行けばね。」
紅茶を飲むフェリクスに一度だけ視線をやる。零はカップが唇から離れるまで見つめて、アルフレッドに視線を戻した。
「この体を[シシャ]に戻した場合は?」
俯きつつ、アルフレッドは目頭を揉んだ。
「……分からない。なんにせよモデルケースがないからね。今のところの情報から推測するなら、果たして半月保つかどうか……。」
「長くて半月は保つんだな。」
指を離して顔を上げると、アルフレッドは呆れ返った顔で零を見つめ返した。
「一体何を考えてるんだい?」
「例えゴーレムでも、ほぼ植物状態の俺を世話させるのは忍びない。[シシャ]なら腹も減らないし排泄の必要性もないだろ?」
脚を組み、アルフレッドはサイドテーブルに肩肘をついた。目を瞑って暫く考え込むような素振りを見せる。
「君の気持ちはとても分かるけどね……。」
「拒否する理由があるのか?」
すかさず言葉を紡いできた零に、アルフレッドは早々降参した。両手を上げて、お手上げですとばかりに頭を横に振る。
「分かったよ。今君が[シシャ]に戻っても、アーサー達が感知出来るかどうか分からないほどに脆弱だ。」
満足げに微笑んで、零はベッドから這い出してきた、ワイシャツの前を止めて、革靴を履く。そのまま駆け足でどこかへ行ってしまい、寝室にはフェリクスとアルフレッドだけが残された。
「……よろしかったのですか?」
「貴方が最期まで面倒を見る気があったのは分かります。でもそれより、零の気持ちを優先させてあげたかった。」
眼鏡を外し、アルフレッドは珍しく皺の寄った眉間を人差し指で動かした。
「好きにさせてあげましょう。最期の時ですから。」
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