Verse 3-9
扉から薄っすらと入ってきた空気で、置いてあった本のページが捲られていった。いつの間にか机に突っ伏していたのか、零は一度顔をしかめて目を開ける。
「またこちらで?」
「う~ん。」
零の目の前に積み上げられた本を撫でて、フェリクスはくすりと笑った。
「あの輩に随分とご執心のようですね。」
上体を起こして、零は開いていた本を閉じた。ラスプーチンに関連する本がテーブルの一角に並べられている。フェリクスは真向かいに座って、選ばれた本のラインナップを眺めている。
「ラスプーチンがなにを考えているかさっぱり分からない。」
「敵の大元はアーサー王なのではないのですか?」
口を噤む。寂しげに眉を寄せ、零は一瞬だけ微笑んだ。
「……結論から申しますと、今のアーサー王のやっている事はグリーシャの性格とは全く正反対です。」
「ラスプーチンは……俺と敵対する事を願ってはいないと?」
表紙に落としていた視線を元に戻し、フェリクスは微笑む。
「あの男は結果的に国を破滅に導きましたが、それは結局結果論でしかありません。あの男が本当に国を滅ぼしたがったか……それは火を見るよりも明らかではありませんか?」
「……それは確かに。あの男は王朝を救う為に召し上げられ、その役目を全うする気だったみたいだしな。」
よくご存知で、とフェリクスは嬉しそうに唇を弓なりにしならせる。
「あの男はどこまでも善良です。それ故に愚かしくもありますが……。」
その言葉に零は、ふぅん、と呟いた。反ラスプーチン派で、暗殺まで決行した男がこれほどまでにラスプーチンに肩入れしているとは思わなかった。
「そうと思っていたのに何故暗殺を?」
「いかに善良いえども滅亡の原因である事に変わりはありません。善良だからと死を免れる理由にはなりません。故に。ですが……私もまた、愚か者でしたね。」
ため息をついて、フェリクスは背もたれに体を預けた。
「……愚かなのは別に二人だけじゃない。王族も穢多非人も、人間は愚か者だ。」
フェリクスと同じように椅子に踏ん反り返っていた零もまた、深く息を吐いた。
「元々人間だった俺達もまた。」
心の中を伺うように、フェリクスは顔を斜めに反らして零に視線を投げた。
「[神]である主もですか?」
数秒を待って、零はふっと笑った。
「俺も愚か者だ。愚か者でないなら、第二次世界大戦であんな事はしない。」
肘掛に肘をついて、腹の前にある指先をいじり始めた。微笑みはすぐに消え、零は目を閉じる。
「傲慢にも歴史を変えたお陰で、あそこで死ななくてもよかった[人間]を……大勢殺した。」
少し驚いたように、フェリクスは目を見開いた。シャンパンゴールドの長い睫毛が揺れて、すぐにフェリクスは、堰を切ったように静かに笑った。
「主よ、死ななくていい[人間]などいませんよ。」
そしてすぐに真顔に戻って、フェリクスは子供に教えつけるようにゆっくりと、揺るぎない光を灯した瞳で零に言った。
「[人間]は、例え天変地異が起きようともいつか死を迎えるべき生き物です。」
書庫に運ばれてきた昼食は、パスタの代わりにじゃがいもを使ったラザニアと、アボカドのチョップサラダだった。
「野暮な事を聞いても?」
水で口を潤すと、零はそう口火を切る。ラザニアにフォークを入れていたフェリクスは、どうぞ、とばかりに首を傾けた。
「[シシャ]は基本、第一次世界大戦終戦直後までに死んだ人間ばかりだ。でも……。」
「確かに、私は第二次世界大戦後まで生き延びております。」
フェリクスは微笑んで、ラザニアを切るナイフを止めた。
「ですが主よ、公爵フェリクス・ユスポフは帝国の崩壊と共に死にました。その後に在るのは、ロシア帝国での栄華など見る影もないフェリクスという男だけです。」
ゴーレムに入れさせたぬるま湯を両手で持ち、フェリクスは顔を上げた。微笑んでいた表情には、少し寂寥が差していた。
「故に、フェリクス・ユスポフは今ここにいるのです。」
大きな瞳を閉じて、フェリクスは自重気味に笑った。
「……料理は美味しいですか?」
「あ、あぁ……。まあまあ。」
いつも即答して美味しいと言っていた零は、珍しくそう述べた。フェリクスは首を傾けて、そうですか、と呟いた。寂しさは、味覚さえ侘しくさせるのだろうか。
夜、零は久し振りに睡眠の途中で目が覚めた。外では吹雪ががたがたと窓を鳴らしている。しかし、起きた理由はその物音ではない。カーテンの模様に目を凝らしながら、零は喉元をさすった。どうも器官のあたりがむず痒い。
(今までこんな事なかったんだが……。)
眉をしかめてベッドから降りる。暖炉の火が揺らめかない部屋は酷く寒かった。羽毛布団の上に放り出されたふかふかのガウンを羽織って、燭台の蝋燭にに光を灯す。屋内であるにも関わらず、息はすっかり白い。白湯を入れに部屋を出て、廊下に出た。
(靴下も履けば良かったか。)
内履きだけでは冷気から指先を守れない。指を曲げたり伸ばしたりしながら階段を降りると、廊下にふと影を感じた。ゆらりと動いたそれは、その動きに逆らえずに壁に腕をぶつけた。影が呻く。
「……フェリクス?」
名前を呼ばれて、はっとしたように影は振り返った。黒いガウンの裾が翻った先に、ステッキがあった。
「どうしたんだ。歩けないのか?」
労わるように歩み寄ってきた零に、フェリクスは少し苦しげに微笑む。
「貴方こそ……こんな時間に起きてるんですね。」
参った、とばかりにフェリクスはガウンでステッキを隠すのをやめて、月明かりが降り注ぐ廊下のソファーに倒れ込むように座った。その横のスペースを撫でられて、零も燭台を置いて腰を落ち着ける。
「肩が……痛いのか?」
ずっと肩を握っている手はすっかり白くなっていた。零がその浮き上がった骨に触れると、フェリクスはため息を吐いた。
「あまりこういうのはお見せしたくないのですが……、こんなところを見られては仕方がないですね。」
手を離して、フェリクスは寝巻きの前のボタンを外した。滑らかな自身の肌を撫でて、掴んでいた肩の側の服を肌蹴させる。その丸い肩には、小さなカーブが連なっている。
「これは……歯型?」
「そうです、庇っている脚にも同じものが。」
太腿の辺りをさすりながら、フェリクスは首を傾げて痛そうに微笑む。零が人差し指で恐る恐るその黒い歯型の痣をなぞると、フェリクスは再び口を開いた。
「これは……アダムとイヴが追放された証です。」
肩に手を置いたまま、零はフェリクスの顔を見上げた。
「お察しの通り、私はただの[知恵の実]ではありません。アダムとイヴが誘惑されて口にした唯一の[知恵の実]。そしてそれが、私が今ここにいる理由です。」
「いつも痛むのか? その頃からずっと……。」
フェリクスは僅かに頷いた。
「どうしてフェリクスが……?」
「たまたまでしょうね。それは。」
声を出して自嘲気味に微笑むフェリクスから視線を逸らして、零は歯型から手を退けた。[人間]達の罪の証明、それがこの男の体にはたまたま刻まれているのだ。
「主よ?」
難しい顔で、零はもう一度親指で歯型をなぞり、太腿に視線を移す。思考を巡らせて、零はその結果を口にした。
「……多分、なんとかは出来る。歯型はなくせないけど。」
「いけません、そのお体で施しなどしたら——」
見上げた零の瞳は揺らがなかった。口を閉じて、フェリクスは目を伏せた。こういう目をした人間は、実に頑固だ。
「ここまでしてもらったのに、俺はまだなにも出来てない。」
そうですね、と吹雪に掻き消されるような声でフェリクスは密かに囁く。零の手のひらが、フェリクスの肌に、そっと触れた。
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