Verse 3-2
部屋の外に出ると、どこからか椅子を持ってきて本を読んでいるフェリクスがいた。ゆったりとした柔らかいワイシャツと、厚手の紺色のジャケットに赤い紐タイを結んだ零が出てくると、フェリクスはすぐにその顔を見上げた。
「良かった、血の気が戻ってますね。」
「え、あ、はい。」
零は自分の顔に手を当てた。風呂に入る前はどうやら、大層酷く青ざめていたらしい。
「あ、敬語は結構ですよ。僕はこちらが慣れてるのでこうしているだけなので。」
「分かり……った。」
目を細めて微笑み、フェリクスは音もなく立ち上がった。細い体のシルエットは、着ているローブで全て隠れてしまっている。
「あの、いつもそういう民族風の服で過ごしてるのか?」
「えぇ、スーツを着る事もありますが、ゆったり過ごしたいのでこういう服を着ています。」
長い廊下に敷かれた絨毯はふかふかしていて、床の硬い反動がなかった。窓の外は相変わらずの雪だが、下から元気な子供の声が聞こえた。フェリクスの案内から離れて、窓ガラスの下を覗く。
「ちょうどお茶の時間ですから、殿下が遊ばれている頃ですね。」
続いて犬が陽気に吠える声がして、引き返したフェリクスから再び窓ガラスに視線を戻す。
「殿下っていうのは――」
「はい、アレクセイ皇太子殿下です。午後の一時から三時辺りは屋敷の前で遊んでいらっしゃいますよ。」
お会いになりますか、とばかりの悪戯っぽいフェリクスの微笑みに、零はゆっくりと頭を振る。
「現在は冬季でニコライ陛下はいらっしゃらないので、本日はアナスタシア殿下と遊んでおられるかと思います。」
「え、ニコライ陛下は何処へ……?」
サッシから手を離して、フェリクスは進もうとしていた廊下に戻る。零も慌ててその背中についていく。
「今年も確か中東へ行っています。フィリップ尊厳王陛下と一緒に。」
噂の傭兵業とはこの事か、と零は目が遠くなった。理恵から一度話を聞いた。冬になると、ニコライ二世とフィリップ二世、ルプレヒトで、米軍の頼みからよくよく中東の砂漠地帯に行っているらしい。
「あそこは帝國の事が終わっても仲がいいなぁ。」
「仲がいいというよりは、……そうですね。仲はとても良くていらっしゃいます。」
仕事として仲が良いのでは、と言おうとしてフェリクスは少し眉を寄せた。あそこの繋がりは奇妙さに奇妙さが絡んだところがある。敬愛される王と滅亡させた皇帝、師と弟子、大戦の敵国人、様々な縁の渦中であった。
「あそこの御三方はとてもドライで。たまに応対をするのですがどこまで接していいかよく分りません……。」
「フェリクスさ……でもそんなに変な仲なのか?」
階段を降りると、紅茶の香りがふわりと顔にかかった。扉の向こうが客間らしい。ドアに嵌め込まれているハクモクレンの描かれた磨りガラスの向こうで、ゴーレムがせっせと茶菓子の準備をしている。
「えぇそれはもう……。僕からしてみれば、帝國で縁を結んだ方々はとても面白いと思っていますよ。」
そんなにか、と零は眉を下げた。しかし、フェリクスの意見はとても興味深い。ドアの向こうには、ハイティスタンドが二つほど並んでおり、インペリアル・ポーセレンの茶器達が白いレースのテーブルクロスの上に佇んでいた。
「僕達[シシャ]は、基本的に生前の知り合いとしか話しません。もし他に知り合いが出来たのであれば、その人は物凄く著名でたまたま話す機会があったか、家系ぐるみで付き合いがあったか、生前の知り合いから紹介があったか、そのくらいです。故に、[シシャ]のコミュニティは少し狭いんですよ。とても保守的なんです。」
ゴーレムに椅子を引かれて、零はそのダークオークの重厚な椅子に座った。赤を基調としたその部屋は、ティータイムを過ごすにはとても良い雰囲気だった。暗い部屋ではあるが、かといって華がないわけではない。ダークオークと臙脂を彩るかのように、ペルシア絨毯に組み込まれた様々な色彩と、装飾の淡い金が部屋で過ごす人の緊張をほぐしていた。
「そういえば最近ロマノフとカペーが家族ぐるみで付き合っている、っていうのは、もしかしてフェリクスにとっては……。」
「はい。僕にとってはそれはとても、良い意味で不思議な縁でした。帝國であのお二人が出会っていなければ決してあり得ませんでしたから……。ロマノフと交流があったのはブルボン王朝やボナパルト家でしたし、世紀末になればフランスは既に共和国でした。ブルボンとカペー家もさして交流が取り沙汰されるような関係でもありませんし、物凄く時代のブランクがあります。」
小皿の上にクランベリーのジャムを乗せるフェリクスを見て、零はそのスプーンが行き交う様を追った。すっかりロシアでの文化を忘れかけていた彼にとって、その光景は良い刺激だ。
「そうか、ジャムは突っ込まないんだった。」
「最近はロシア人でも突っ込む方は見ます。ですがジャムを突っ込んだら……ねえ?」
基本的に、ジャムには煮崩れしたフルーツが入っている。ジャムを紅茶に入れて混ぜたら沈殿して、最終的に残されてしまう。
「蜂蜜もありますよ。これは今年取れたものです。クランベリーのジャムもこの秋に。」
二つの瓶を差し出されて、零は両手を出して迷い始める。
「えっと……俺もクランベリーで。」
ラベルも自家製らしい。一体誰がこの家庭的なクランベリーのイラストを描いたのかは分からなかったが、皇帝や貴族の手にかかってしまえば、ラベルに書かれるカリグラフィー達など朝飯前なのだろう。
「それで、貴方の事もエカチェリーナ陛下やニコライ陛下からお聞きして少し気になっておりました。たまたま、本当にたまたま、以前アルフレッドさんとお仕事をする機会がありましたので、それを使って今回はこちらに。」
「そうなのか……。てっきり海外は、ドイツとかROSEAに送られると思ってたからちょっと驚いてたんだ。」
白い陶器に暗いピンクの果汁が広がる。
「えぇまあ、候補ではあったようなのですが、アルフレッドさんは結局この屋敷を選択しました。」
「それはまた……何故?」
微笑んでいたフェリクスが、至極真面目な顔でクスミティーのの入っているカップを口の前で傾けた。
「この屋敷は人里からとても離れている事。そしてロマノフは実戦にかなり特化しております。更に、この敷地内では現在、全員了承済みの上で一つの実験を行っている事です。」
「実験?」
スタンドからチョコレートケーキを取って、零はキョトンとした顔でフェリクスを見た。
「敵方に見つからないようにする為のバリア、と言えばいいんでしょうか。我々の[核]を探知させない為に、この敷地内、森林を含めた丘一体はそれが張ってあります。」
本来ならば、人間界にいる事を相手方に知られない為には地中の[燃料]を吸い上げないように意識する必要と、体内の[核]活動をカモフラージュする必要がある。要するに、個人個人で対処しなければならないのだ。しかし、フェリクスが今言う実験、と言うのは、それをしないでいかに、[シシャ]の存在を知られないか、というものだ。
「バリアの範囲にいる間は、いかなる事をしても……[燃料]を吸い上げたり、[シシャ]として無意識に過ごしていても大丈夫だと言う事です。最近では、指環の運搬で使うなどして実践投入もしています。」
「それは、どうやってそんな事を?」
フェリクスもまたクッキーを手にとって、皿の上で半分に割った。
「いやあ実は、僕もよく分かっておりません。ROSEAで作ったシステムを実験してくれ、と言われてニコライ陛下が持って来たもので、話を聞いてもさっぱりでした……。」
ROSEAから、と聞いて零は顔をしかめた。あの研究所は零の直轄である。しかしそのような話を聞いていない、という事は報告されていないという事だ。
「そう気を立てないで下さい。恐らく貴方の体調を考えて気苦労をかけないようにしたんですよ。」
「ROSEAなら有り得るけどROSEAは基本怠ってるからなあ……。」
それは弁解の余地がありませんね、とフェリクスは声をあげて笑った。話題に一息ついて外を見てみれば一人の少年が、じっと二人の雑談を眺めていた。
「……あれが皇太子殿下?」
「おや……。えぇそうです。少しお待ちを。」
立ち上がって、フェリクスは吹雪のすっかり収まった外の様子を確認して窓を開ける。
「殿下、如何致しましたか?」
「公爵、あの人は?」
物珍しそうにクッキーを眺めて割っている零を示されて、フェリクスは一度だけそちらに振り返った。
「本日からこの屋敷に泊まる方ですよ。」
言葉の聞き取れない会話が耳に流れ込んでくる。フェリクスの背中からアレクセイ皇太子の姿は見えるが、目に力を入れなければどうにも輪郭がぼやけた。
(視力が落ちた……。)
耳も、以前より遠くなって音が聞き取りにくくなった気がする。恐らく明宏と戦った時に無理をした反動だろう。アルフレッドからは強く言われた。もう[シシャ]みたいな事は今の体ではしないでくれ、と。
「大丈夫ですか?」
眉間に皺を寄せて壁紙の柄を見ていた零は、目の前で手を振られて我に帰る。
「……。皇太子殿下は?」
「お昼のお茶の時間へ。……そういえば、何処か観光したい場所などありますか?」
顔に似つかわしくない、よっこいしょ、と言う言葉と共に零の隣に腰を下ろして、フェリクスはスコーンにクリームをたっぷりと塗った。
「いや、特には。どうして?」
がぶりと食いついて、フェリクスは頷いた。きっとクロテッドクリームも自家製なのだろう。
「明後日に、エカチェリーナ陛下が久し振りに顔を見たいと今朝方言っておりまして。よろしければ午前のお茶の時間に如何ですか?」
「陛下かあぁ……。」
思い出して、ティーカップに手で蓋をしてその上に額をつける。エカチェリーナ二世、ピョートル一世に並ぶロシア帝国の大帝である。生前、零の主人であったフリードリヒ二世とも友好関係が深い上、零自身もフリードリヒ大王の死後に長い間ロシアでエカチェリーナ二世に抱えられていた。
「なんでしたら都合をつけて断る事も出来ますが……。」
「いや、行く。行きます……。」
断ったらなんと言われるかた堪ったものではない。エカチェリーナ二世は温厚な方だが、断った後少々ねちねちしてくるのだ。
「大丈夫ですよ、僕も同席しますから。」
にこりと微笑まれて、零は助かったとばかりに両眉を上げた。
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