Verse 3-1
足元には白い結晶の野原。頭上には、青白い空が見える筈だがその日は薄く灰色の雲がかかっていた。黒い革の旅行鞄を持ち直し、零はシベリアに近いヨーロッパ・ロシアの無人の土地を再び歩き始めた。
(さっみぃ……。)
アルフレッドの病院から退院して約一ヶ月。フェリクス・フェリクソヴィチ・ユスポフの快い承諾の手紙を携えて零はその日、彼とロマノフとが人間界に構える屋敷へ向かっていた。
(やっと見えた。)
雪原と言っても屋敷があるのは小高い丘だ。少し急な、もはや道も足跡も見えない坂を登っていると、 漸く小さな屋根の姿が見えた。
フェリクスの屋敷の戸を叩いた頃には、既に零の頭にはふるいにかけた砂糖のように雪が降りかかっていた。
「えっと、タクシーはどうしたのですか……?」
「積雪で立ち往生を……。」
鳴ったベルに出てみれば、目に見えて体を壊しそうなその光景にフェリクスはシャンパンゴールドに輝く大きな瞳を更に見開いた。言われてみれば、最近はずっと雪である。この道一つ見えない丘をタクシーで登れというのも無理な話だ。
「そうでしたか。ならば電話一つかけて頂ければ……いえ、前の話をしていても仕方ありませんね。さあ、どうぞ中に!」
玄関に屋根があるとはいえ、[人間]の体ならばいくら着込んでいてもシベリア近くの土地の寒さは身に堪えるだろう。日本で生まれ過ごした零ならば尚更である。屋敷の中は既にすっかり温まっていた。少し赤みの強いベージュの壁には、掛けられた蝋燭の橙色の灯りが浮かび上がっている。黄金や白のトリムとレリーフに目を奪われつつ、零はフェリクスと使用人ゴーレムの背中を追って正面の階段を上がった。見えたのは巨大なシャンデリアだ。
「ここはモイカ川沿いにある屋敷をモデルに作られているのですが、階数が少ないです。間取りも要素のみを残して配置を変えていますし。」
自らの宮殿の案内をしながら、フェリクスは手すりにそっと触れて階段を上っていく。窓から差し込む若干の日の光が、壁と天井一面を埋め尽くす彫刻達の影をより濃くしていた。
「内装は?」
「ここは同じですよ。ですがここ以外は実際のものよりずっと質素ですね。生前も今も豪勢な屋敷にいるのは少し疲れますから。」
寂しげに微笑んで、フェリクスは零の泊まる寝室を案内した。
「さ。ベッドは沢山ありますので、ここが合わなければ他の部屋に案内しますよ、……。」
掌を合わせてくるりと振り返る。フェリクスが着ている黒と金のローブが足元に広がった。
「何とお呼びすればいいでしょうか?」
「え、零でいいです……。」
フェリクスの選んだ部屋は、今まで覗いてきた部屋の中で一番質素だった。が、それは比較の話であって、日本住まいの零にしてみれば持て余すほどに広い。ベッドはクイーンサイズで、その隣にはかなりスペースを置いて三面鏡が置いてあった。更にその向こう側には同じくらいのスペースを空けて庭が一望できるベランダがある。
「零さんでは面白くないですから。他の方には何と呼ばれてるんですか?」
「俺は……呼び捨てばっかりだけど。珍しい呼び方、か。」
取り敢えず案内された寝室に入って、重い赤の天鵞絨にリボンで束ねられた、沢山の花束が刺繍されたベッドカバーの上に鞄を放った。
「そうだな……。ROSEAの局員達には我が君なんて呼ばれてるけど。他は……ヴァチカンのリリアムは、主よ、って呼んできたりもする。」
厚手のコートを脱いでゴーレムに預ける様子を見ながら、フェリクスは両手をたおやかに合わせて微笑んだ。
「主よ、ですか! それはとても、今の零さんにお似合いで、とても面白い呼び方ですね。私もそう呼んでも?」
「べ、別に構わないですけど……。」
フェリクスは二度ほど頷くと、コートを脱いで部屋の中を見渡す零の手を取った。驚いて、零はフェリクスの顔を見る。慈愛とユーモアに満ちたその微笑みは、当時のヨーロッパ絶世の美形と言われた顔に浮かんでいる。
「屋敷の中の案内はまた後ほどにしましょうか。まずは十分に温まって下さいね。」
決して強くは握り締められていなかった。驚いている零の顔にもう一度華のような微笑みを投げかけるように首を傾げて、フェリクスはするりと重ねていた手を下ろした。
「お風呂ですが、バスルームは各部屋に、ビザンティン風の浴場は下にあります。今は取り敢えず部屋にあるバスルームをお使い下さい。」
慌てたようにバスタブへ湯を張りに行ったゴーレムがバスタオルを持って戻ってくると、零は少し抗議したそうな視線をフェリクスに向けた。
「お気持ちは分かりますが、まずはその体を大事にして下さい。積もる話はまた後で、紅茶で暖まりながら。」
では、とフェリクスは一度だけ会釈をして、ゴーレムと共に零がこれから泊まる部屋を出ていった。零は部屋の中をもう一度見渡す。隣の、ロマノフ皇帝達が住む屋敷を横から一望できる大きな窓は、外と屋内の気温差で幻想的に曇っていた。巨大な窓の隣には、豪華なレリーフと色の違う木で彩られた模様の浮かぶ重厚な三面鏡が置いてある。その反対側には衣装ケースがあった。取り敢えず、トランクの中身を洗いざらい箪笥に移そうと机と鞄をそちらに寄せた。一番上には、既に仕入れられた下着が皺なく詰められている。
(……そういえば。)
なぜ、フェリクス・ユスポフという男に自分を任せたのか。アルフレッドの人選は少し疑問であった。もし零を療養させるなら、ロシアならロマノフの屋敷のほうが顔の知れた者が沢山いただろうし、ロシアではなくフランスや、 ROSEAでも良かった筈だ。手を止めて、三面鏡と同じ模様を描く箪笥の机部分を見る。エルミタージュ美術館に飾られている多くの絵画のポストカードが、点々と飾ってあった。
バスタブにゆっくり浸かりながら、零はぼんやりと携帯端末を見つめる。メッセージの返信は、ジークフリートで止まっていた。
『ロシアは寒くないか?』
文面に返信しようとして早五分。寒くはあるが、部屋は暖かい。その旨を返そうとして、零はぼんやりと過去や後先の事を考えた。自分が相対した兄妹の事、グリゴーリーと逸叡の不可解な行動の事、自分の体の事。
『寒くないよ。』
ルプレヒトの事。自分は果たしてこんなにゆっくりと、風呂に浸かってリラックスをしていていいのだろうか、と零は携帯をサイドテーブルに置いて天井のタイルを眺めた。こうしている間にも、彼に協力してくれている[シシャ]の多くは古今東西のどこかで戦っているかもしれない。有用性のある研究に明け暮れているかもしれない。
「失礼します。」
バスルームの向こう側からノックの音が聞こえて、零は反射的に三角座りになった。含み笑いをする声が聞こえる。
「紅茶の用意が出来たので、部屋の外でお待ちしてますね。」
「は、はい。すぐ行きます!」
慌ててのぼせかけた体で風呂から出る。一瞬血の巡り過ぎた頭がぐらりと揺れる。慌ててガラス製のサイドテーブルに手をついて、零は頭を横に振った。
(前はこんなすぐにのぼせなかったのに……。)
外でずっと凍えながら歩いてきたせいである。零はそう思い込む事にした。
毎日夜0時に次話更新です。




