Verse 2-50
清張と史興を洋館に残して、ルプレヒトは外に出た。芝生には確かに人が走ったような足跡が雑木林にあった。月明かりも届かない雑木林に足を踏み入れて、ルプレヒトは影から歩いてきたジャーマンシェパードを見下げた。
「分かるか? ブリッツ。」
「この先をずっと真っ直ぐです、ご主人。」
そう行って、鼻先を斜め前にやる。フィリップ二世が以前に見つけた通り道だ。案内を頼むと、一度頭をもたげてブリッツは雑木林の藪を進んだ。先日は枝に飛び移って進んでいた為か、地面を歩くとなると思ったよりも時間がかかる。藪の途切れた場所が漸く見えたところで、ブリッツがルプレヒトの前に立ち塞がった。
「ご主人、お待ちを。」
「どうした。」
丁度頭上にあった枝に手をかけ、ルプレヒトはブリッツが見る方面によくよく目を凝らした。
「匂いが違います。」
どさ、と向こうでなにかが倒れる音がして、ルプレヒトは素早く藪に身をかがめた。視界を遮っていた枝が消え、藪が邪魔をし始めた。
(……あれは!)
頭に電流が走るかのような閃き。藪の終わる場所にあったのは、黒いスーツと、闇夜でもよく目立つ薔薇色のネクタイだった。全く、馬鹿な真似を。その形のいい唇が紡いだ言葉を、ルプレヒトは読んだ。地面に屈んで、男はなにか銀に光るものを手に持つと、再び立ち上がる。
「っ待て!お前は……!」
男が背を向けたと同時に、ルプレヒトは藪から飛び出た。墨汁のような艶やかな髪が、波うねるのを目にした。
(……消えた、のか。)
ひらけた場所にあったのは、首を一閃して落とされた黒い人型だ。やがてそれは整えられた芝生に紛れ、液体となって染み込んでいったように見えた。視線を感じて、来た方向を振り返る。なにかの存在どころか、気配さえない。
「ご主人。」
我に返って、ブリッツが芝生を鼻先でつついていた。フィリップ二世の体が無造作に転がっている。
「フィリップ!」
ブリッツの濡れた鼻を寄せられて、フィリップ二世の瞼が震えた。
「怪我はないか……?」
首にくっきりと締め上げられた痕が残っている。ぼう、とアイスブルーの瞳を開いて、彼はブリッツのほうを見つめていた。
* * *
中学一年生、初めての冬を迎えた。その年の冬は例年ほど冷え込みがなく、果たして一年を通して都心部に雪が降るか怪しい予報が出ていた。
「こんにちは。」
博人と勇斗と一緒に食堂でチキンカレーをかきこんでいた零は、その軽やかな挨拶に顔を上げた。
「綾子さん?」
「食堂ってこんなに混んでるんですね。お隣、いいですか?」
お盆の上には日替わりBランチセットが置かれていた。炊きたてのほかほかひつまぶしに、豆腐とわかめの味噌汁。豚の生姜焼きとほうれん草のおひたしが所狭しと並んでいる。
「えっと、どうぞ。」
返事を言った後に、零は向かいに座る二人に視線をやった。別に構わない、と二人は首を振る。
「普段は冬も外で食ってるんすか?」
「いいえ、教室で食べてます。でも、今日は食堂からいい匂いがしたので。」
どうやら綾子はひつまぶしが好物らしい。食堂共通の藍色の線が無数に入った茶碗を持ち上げて、美味しそうに頬張る。
「ちょい意外……。」
「あっさり系のメインディッシュのが好きそうだもんね。」
向かい側でひそひそと声を交わす二人を、綾子はただにこにこと見つめていた。最後のチキン一欠片を食べ終えて、零は隣を見た。
「……生姜焼きは——」
「良かったら食べますか?」
なんとなく聞いたところに皿を出されて、零は少し仰け反った。
「いけない事だとは分かってるんですけど、どうしてもひつまぶしが食べたくて……。」
「お肉はお嫌いなんですか?」
乗り出して聞いてきた博人に、綾子は渋々頷いた。様子を見るに、嫌いというよりは食べられないと言う感じだった。
「私の家ではお肉は食べてはいけない決まりなんです。魚はいいんですけど。」
お言葉に甘えて、と零は差し出されたままだった生姜焼きの皿を受け取った。味噌汁とほうれん草のおひたしは確かに完食していた。残っているのは豚の生姜焼きだけだ。
「珍しいですね。ベジタリアンってわけでもなく……。」
「信仰上の理由です。」
はにかみ笑いを返す綾子に、博人は眉をひそめて納得のいかないような曖昧な相槌を返した。
下校時間、図書館に新しく入った雑誌達を読みふけりながら、零は指定された練習問題に励みつつ理恵のクラスの終礼が終わるのを待った。新しい校舎なだけあって、さらにインターナショナル学校である事もあり、様々な言語の新聞や蔵書が揃っている図書館だ。
(ラーマーヤナ原語本……。)
向かい側に座っていた東南アジア系の少女が積んでいる本の中には、そのような大学図書館に置いてありそうなものまであった。
「探し物は見つかったのか?」
「ありましたよ〜。」
一月の新刊をわんさか借りてきた博人は、意気揚々と勇斗と自分のバッグにそれを詰めていた。本来なら初版本を買ってくる二人だが、最近は悠樹邸の本棚がみっちり詰まっているおかげで図書館を頻繁に利用していた。
「そろそろ読まない本を神保町で売るべきですかね。」
「と言って売ると案外読むんだよなあ〜。」
本を詰め終わって学生鞄のチャックを締める。ちょうど理恵が図書館の正面扉から入ってくる姿が見えた。
「待ったかしら?」
「後ろの二人はあんまり。」
数学の本を閉じて、零はそれを乱雑に鞄に押し込んだ。どうも数学と化学は好きになれない。
「相変わらず数学は苦手なのね。」
「物理のが数倍楽しい。」
図書館を出れば、真正面に磨りガラスの正面玄関と広場がある。そこをくぐって校門まで歩いていくと、珍しく再び綾子に鉢合わせた。今回ばかりはどうやら偶然ではないらしい。だれか探していた風の綾子は、零を見ると手を振ってきた。
「ちょっと。」
「無視するわけにはいかないだろ……。」
理恵に腕を掴まれた零も、会いに行くのが少し嫌そうな顔でその手を振り払った。
「正直数学と化学より苦手だ。」
そう呟く零に、若干の安堵と多大な焦燥感を覚えて背中を見送る。零は一度だけ理恵を振り返った。
「そういえば、今日はランチの時間にも会ったんですよね。」
「何か話ししたの?」
背中から視線を逸らさず、理恵は背後で頭越しに零の様子を伺う博人と勇斗に尋ねた。
「今日のBランチ、ひつまぶしと豚の生姜焼きを頼んでたんですけど。お肉が食べられないので零さんにあげてました。」
「なんでも一身上の理由で食べられないらしいすよ。」
一身上の理由、と理恵は眉を上げた。綾子が親しげに話しかけるのを、ただじっと見つめる。零が振り返って手を合わせてきた。どうやら先に帰っていろという事らしい。
「どうしますか?」
そのまま背中を向けて、二人は校門の先の生徒の人混みに姿を消してしまった。
「つけていきたいのは山々だけど、取り敢えずどこに入っていくかだけ見て帰りましょう。」
古典はちょっと、と零はペアチケット二枚を手にとってにらめっこしていた。向かい側の席に座っている綾子からしてみれば、まるでどちらがババか、と差し出されているようである。
「歌舞伎とか狂言、そんなに好きじゃないんですよね……。」
かと言ってオペラが好きなわけでも、ミュージカルが好きなわけでも、演劇が好きなわけでもなかった。零にとって、人が演じているのを見るのは映画やアニメーションが限界であった。
(言葉が頭から逃げてくんだよな……。)
「そうなんですか。そうとは知らずに……ごめんなさい。」
テーブルの中央に置かれたチケットをまとめて、少し肩を落とした綾子を見て、零は気まずくなる。
「いえ、こちらこそ。折角の申し出だったのにすみません。」
手の中にあったメープルティーを一口すすって、零は一つ息を吐いた。綾子がトイレに行ってきます、と言って席を立つと、零はそのまま机に突っ伏した。息の詰まるような空気から一瞬だけの解放を味わる。
(おうち帰りたい……。)
フィリップ二世の一件があった後、銀承教に関して特に進展はなく、だれかが襲撃される事もなかった。いくばくかの平和な日々が続いているが、嵐の前の静けさのようにも思える。
(……。)
向こう側まで伸びていた手に、冷たくなりかけた生暖かい金属が触れた。身を起こすと、白銀の紐が置いてある。
(……リボン?)
くるくると指に巻きつけて見たが、何の変哲もない布だった。綾子が首に巻いていた首飾りだろうか。素っ気のない平たい紐だが、覚えのない手触りだ。トイレから綾子が出てくるのが見えて、零は慌ててそれを膝の上に置いて咄嗟にROSEAの検索にかける。リボンがどこで製造されで、一体なにで構成されているのかが分かる筈だった。
(詳細、不明?)
零は顔を上げた。
(ROSEAの検索にかけて詳細不明って……?)
指輪を握りこんで、零は綾子に視線をやった。
「あの。ちょっと用事を思い出したので、そろそろお暇しても?」
「あっ、はい大丈夫ですよ。学校帰りに慌ててお呼び立てしたのに、一緒に来てくれてありがとうございます。」
奢りますので、という綾子の言葉に何度か礼を言って、慌ててカフェを出る。自転車に乗って、制服のジャケットにリボンを押し込んだ。
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