Verse 2-47
にこにこと、弓なりにしなる笑みは二人を眺めていた。
「珍しいじゃない、二人で行動してるなんて。別々だと思ってたわ。」
「相手が未確認生命物体なんでね。で、どうなんだ?」
いつものカフェ、いつものメニュー。ルプレヒトはキリマンジャロコーヒーを注文して、理恵の斜め向かい側、フィリップ二世の隣に座っていた。
「黒いお化けの噂……ね。まあ聞いた事なくはないわよ。ただ、私達が通ってるインターナショナル学校では聞かないわ。おおよそ、招待試合や学校交流で他校から聞いた噂話程度よ。おまけに、暗くなるまで部活動やってるのは大抵体育会系だもの。遭遇話自体は聞いても、行方不明者が出た、という話は聞かないわね。」
「生徒の界隈ではさして……か。」
小さな持ち手を掴んで、理恵はカプチーノを口に運んだ。
「あぁでも、大学生はそれなりに行方不明者が出てるって話じゃない。最近は講義時間も大幅に切り上げられて教授達が阿鼻叫喚……って話してたのは島田君だったけれど。成果はどう?」
「さっぱりだ。顔合わせは済んだが、一体あれがなんなのか見当もつかねぇ。木の枝みたいな触手を飛ばしてきて引きずり込むのは分かったんだがな。」
肘をついて、フィリップ二世は紫煙を吐き出した。白い煙がルプレヒトの目の前を立ち上っていく。
「どこかのオカルトの雑誌で人の形を得るために、とか言っていたの、なかなか面白かったわ。瓶詰め小人なんかかしら。」
「小人にしては随分の肥満体質だったぞ。」
にっこりと微笑んで理恵はソーサーにカップを戻した。隣で腕を組んでコーヒーをちびちび飲んでいるルプレヒトを一瞥する。
「珍しい人選ね、彼を選ぶなんて。」
「ニコライを呼ぶわけにはいかなくてな。別にいいだろ、だれ呼んだってよ。」
フィリップ二世の不服そうな物言いに、理恵は首を傾げた。カフェの鳩時計が、夕方の四時を告げる。
「じゃ、私帰るわ。課題があるから。お疲れ様。」
生徒らしい黒いベルト留めの革鞄を持って、理恵はくるりと回ってドアベルを鳴らしていった。
「人の形を得る……か。確かに、枝みたいな腕だが鶏の骨みたいでもあるな。」
「信じる気か?」
空になったマグカップをトレーの上に置いて、フィリップ二世は半眼になった。
「こんな体になって、オカルト信じるなっつーほうが無理ですよ。」
結果に至る説明など、後に付いてくる付録のようなものだ。フィリップ二世は、この世界がそういうものであると痛く実感していた。
夕食を外で済ませて、フィリップ二世とルプレヒトは雑木林を回りつつ帰った。何度か視線を感じて振り向いたが、二人はその夜、黒い怪奇現象の原因に出会う事はなかった。
「そうだ、あんたに聞きたい事があった。」
帰りの道中、フィリップは頭の後ろで手を組んで歩いていた。背後を歩いていたルプレヒトは、シガレットを唇から外して立ち止まる。
「あんたがナチにいたのは何で?」
「どういう意味だ?」
くるりと振り返って、フィリップ二世はルプレヒトの顔を見据えた。
「リチャードの為だ。」
「何であいつをヨハンにする必要が?」
片眉を吊り上げる。フィリップ二世の表情は変わらなかった。ルプレヒトがした表情の理由を、いかにも知っているような体で踏ん反り返っている。
(どこまで突き止めた。)
冬の風が二人の間を吹き抜けた。やれやれ、とフィリップ二世は頭を振りながら進行方向へ体を戻した。
「じゃあ一つだけ。それは零と別れる事に関係あったのか?」
押し黙ったままのルプレヒトに、フィリップ二世は首だけ捻った。
「……ないと言えば、嘘になる。」
昨日と同じように、ルプレヒトはフィリップ二世の後にシャワーを浴びた。浴室から出れば、昨日とは違う、ベッドに入って携帯端末をいじるフィリップ二世の姿があった。
「寝ないのか。」
「そろそろ寝るよ、うるせーな。」
相変わらず上裸で布団に潜っているフィリップ二世は、ちらりとルプレヒトの方向を見やった。寝ないのか、と言う割には、文庫本のページをペラペラと捲っている。
「それ何周目だ?」
「さあな。飽きた。」
布団の上に文庫を放り捨てて、まるで寝る気がないかのように頭の後ろで手を組む。
「あんた、フランス文学は?」
「読む気もしない。」
暫くしてフィリップ二世が携帯を置くと、おやすみ、とも言わずに電球の明かりを消した。同時に、日付変更を告げる振り子時計の鐘の音が寝室に響いた。
* * *
秒針の音がやけにうるさかった。眠れる筈もなく、ルプレヒトはフィリップ二世の健やかに眠る背中を見つめた。黒く長い髪は艶やかで、月光の青白さを反射させていた。結ばれてもいないそれはすっかり前に寄せられて、いつもは決して見る事の出来ないうなじがあらわになっていた。
「……。」
手を伸ばしても決して届かないが、その細いうなじを空で撫でた。男は死に近いほど扇情的だとはよく言ったもので、ルプレヒトはふと思い出した記憶にため息を吐いた。腕をだらしなく落とし、ただ肩に流れる黒髪を見つめる。
「……。」
最初の拷問講義で、鞭打ちの痛みに耐えかねて意識を飛ばしてしまったフィリップの事だ。気絶した彼を運ぶ為に抱き上げた時の、反った喉仏と、うっすらと残った苦悶の顔、皮膚が引きつるたびに痛みに埋めく声にほんの一瞬だけ理性を失いかけた。
「……。」
起き上がって、昨日のように足音を立てずにフィリップ二世のベッドの傍らに立った。沈み込まないようにマットレスのへりに座って、その黒髪に柔らかく触れる。触れれば溶けてしまいそうな細い黒糸の連なりだった。バスカヴィルの、まとわり絡みつくような執拗な黒髪とはまた違う感覚だ。髪が揺れると仄かに甘酸っぱい香りがする。ぐらりと目眩を誘った。今にも泡になって弾けてしまいそうな青白い肌を、爪で薄く撫でる。爪ではなんの感触も得られなかった、手のひらで、唇で肌に触れるとは耐え難いほどの快感なのだ。
「フ……。」
名前を呼ぶことを躊躇った。敏感な彼のことだ、すぐに目を覚ましてしまうだろう。一層の事唇を塞いで既成事実の状態で目を覚まさせてしまおうか、と考えた。
(誠実さに欠けるな。)
果たして自身の今までの行為のどこに誠実さの欠片があったのかもほとほと疑問である。特にこのような場面に関して、誠実であった試しがない。
「……。」
いりもしない酸素を吸い込み、顔を背けて息を吐く。指の一ミリでも触れれば最後、理性はガラスのように砕け散ってしまうだろう。しかし今は、その理性が壊れる恐怖よりも、滑らかな背中を抱きすくめて首元に鼻を埋めてしまいたい欲望のほうが遥かに上だった。
「っな……ぁ!?」
胸を押し潰されそうな圧を感じて、フィリップは思わず跳ね上がった。いや、跳ね上がろうとしたが跳ね上がることは出来なかった。後ろから抱きすくめられ、あまつさえ首元に鼻を埋められて、フィリップ二世は思わずもがいた。
「おっさん!俺は抱き枕じゃねぇぞ!」
片手で頬でも張り倒そうかと振り上げたが、ルプレヒトの手が手首を掴んだ。力一杯に振り解こうとしても全くびくともしない。もう片方の手で胸倉を掴みあげた。体は離れるどころかむしろ一層首筋に鼻を寄せた。
「こっ、この玉体を辱めるつもりか!? おい落ち着けよ!あんたと俺はそんな関係じゃねぇだろうがっ……!」
「どこが一番感じる。」
あまりに冷静に、フィリップ二世にとっては頓珍漢な質問を投げられて、彼は頭が真っ白を通り越して無になった。アイスブルーに囲まれた瞳孔がどんどんと小さくなっていく。
「ど、どこが一番感じるって……。俺はそういう事した事ねぇから、知らねぇよ……。」
邪魔苦しく髪の毛を払うように、フィリップ二世は首を撫でた。
「……ここはどうだ。」
その手の内に、滑り込ませるようにしてルプレヒトは首に触れた。骨ばった、筋肉もそれなりによくついた緩やかなカーブを撫でる。きめ細かい肌はまるで絹のようだ。いかに言動が乱雑であっても、彼の肢体の至るところまでがいかに玉体であるかを物語っていた。
「そもそも感じるっつーのはどういうんだか知らねぇからどうと聞かれてもどうとも言えねぇ。若干くすぐったくはあるが……。」
「そうか。」
一瞬見せたルプレヒトのあげつらうような微笑みをフィリップ二世は見ることが出来なかった。黒髪の中で青白く浮き彫りになる首に、ルプレヒトの唇が吸い寄せられた。まるで弟を慈しんで撫でるような手とは裏腹に、フィリップ二世の体の中では俗物的な感情が溢れ出してくる。
「もうやめてくれ。なんか、なんか気分が変になってきた……。」
青白い肌に赤みが増す。しげしげとルプレヒトが首を撫で回す様子を見つめていたフィリップ二世は、思わず黒髪で顔を覆い隠した。上がりもしない息がかすかに上がる。シーツを握りしめて、フィリップ二世は目を強く瞑った。
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