Verse 2-45
夕食は海老とアボカドのパスタ、チーズふんだんのシーザーサラダ、マッシュルームとコンビーフの炒め物だった。流石カペーの諸王は暇なときにフランスでカフェバーを運営しているだけあって、その腕は貧相な舌を持つルプレヒトでも唸った。
「あんたに作らせたら俺が死ぬからな、代わりにあんた洗濯やれよ。」
「お前に洗濯をさせたら家が泡だらけになる。」
フィリップ二世は鼻を鳴らす。
「しっかし、日本の輸入チーズは高ぇなぁ。日本産のチーズはさして美味しくもねぇし、咲口が関税下げろつってたのもよくよく理解出来る。」
確かに、とルプレヒトは手元にある料理を見た。シーザーサラダはヨーロッパで食べるものと遜色ないが、パスタの方はいまいち味の決め手が塩胡椒に偏っている気がしないでもなかった。結局、貧しい舌では気がするだけで、確信には至らない。
「そういや最近顔を見てなかったが、あんた何処で働いてんだ?」
「[冥界]だが?」
フィリップ二世の持つフォークが一瞬軌道からずれる。黄ばんだ白熱電球の光を受けて、煌々と輝くアイスブルーの瞳がルプレヒトを向いた。
「天界で働ける身分ではない。」
「ふーん。で、零とは? 随分ジークフリートと仲が良さそうじゃねぇか。」
今度はルプレヒトの手が止まった。赤錆色の小さい眼が、じろりとフィリップ二世を睨みつける。
「零とは別れた。」
「……あっそ。」
堕天に関して言うのであれば終わった事だろう、とコメントしようとして、フィリップ二世はやめた。他人の恋慕に首を突っ込んで、良かった話など聞いた事がない。フィリップ二世でさえ、人並みの恋などした事がなかったのだから到底口を挟める話題でもなかった。
食事を終えてすぐ、二人は家を出た。念の為に二手に分かれることをせず、夜の住宅地の後ろにある雑木林に沿って歩く。懐中電灯は持っていたが、逃げられない為にも腰に下げるだけに留めた。
「しっかし、ここの雑木林に出るとは限らねぇしなぁ。」
月明かりの下に、雑木林は不気味な黒いシルエットを浮かび上がらせていた。出現するスパンに規則性はなく、また住宅近くの雑木林や森、山に出るといった共通点があるものの、ここ、と断定出来るものはなかった。冬に地面を埋め尽くす落ち葉を踏みしだく音を聴きながら、フィリップ二世は後ろを振り返った。ルプレヒトの足音が止まっている。
「おいおいビンゴかよ。」
ルプレヒトが黙っていた理由は、どうやら目の前にいる例の黒い物体をよくよく分析しているかららしい。骨に皮膚が張り付いただけの枝のような触手が伸びる先をじっと見つめている。
「懐中電灯つけるか?」
「救人ならお前が気付く前に既にやっている。」
細い骨を力任せに折る音が宵闇に響いた。下から伸びて来ていたルプレヒトの影が、触手の骨を下に引っ張り下げたようだ。
「これで逃げるか?」
「下がれ。」
ルプレヒトに言われるや否や一歩だけ後ろに下がると、フィリップ二世が先程まで立っていた場所に触手がバネ仕掛けの機械のような速さで伸びてきていた。
「日本のエロ本で見る触手だともっとウネウネしてタコみたいなんだが。」
「逃げるぞ。」
けたたましい甲高い声をあげて、黒い物体はわさわさと雑木林をかき分けながらその奥に入っていった。暫く待ったが、また出現する気配はない。
「深追いするか?」
「やめておけ。それより腕の数が気になる。俺が折ったので二本、お前を捕らえようとしたのが一本。」
一歩足を踏み出したフィリップ二世の腕を掴んで、ルプレヒトは見えた枝のような触手を指折り数えた。
「合計三本ってか。果たしてそれ以外にもあるのか――」
「もしくは無数に生えてくるのか。検証のしようがある。」
* * *
雑木林の周囲を一周して、件の怪奇現象の原因が出てこなかったのを確認すると、二人は家に戻った。戦いに関して慣れているとはいえ、意味不明な怪奇現象に居合わせた二人は精神的に身震いする程の冷気を感じた。
「おっ先~。」
服をぽいぽいと脱ぎ捨てて、ジャケット以外を洗濯かごに放り込む。一つしかない浴室に消えていったフィリップ二世にため息をついて、ルプレヒトはかごに放られた厚手のタートルネックセーターをネットに突っ込んだ。部屋に入るのは青白い月明かりのみで。ルプレヒトは時代錯誤のオイルランプにジッポライターで火を点けた。薄い壁の向こう側からシャワーの音が聞こえる。人の時間に換算して十数年、一人暮らしをしていたルプレヒトにとっては久し振りに聞く他人の生活音だった。仕事をし、帰って寝る。時には同僚の酒にも付き合ったが、ルプレヒトにとっては長く気怠い時間であった。
「……。」
特にする事もなく、トランクに詰め込んでいた文庫を手に取る。幾度となく読み古した本だ。ニコライ二世は、小説は読めば読むほど味がある、などとよく言っているが、ルプレヒトは文学に対してそのような文化的感覚は持ち合わせていなかった。トランクに本を放り出して、ルプレヒトは顔を両腕で覆ってベッドに横になる。少なくとも、寝る前に温かいシャワーの一つは浴びておきたい。その欲だけはあった。暫くシャワーの音が出たり止まったり、湯船に張った湯を跳ね散らかす音だけを聞いていた。冬の夜では虫の一つも鳴くまい。故に、ルプレヒトは冬の夜が特に嫌いであった。
「あんた湯船浸かるか?」
「……あぁ。」
いつの間にか水の音は止んでいて、浴室から解いた髪を拭きながらフィリップ二世が出て来た。起き上がって返事をする。そしてそのままベッドに向かうフィリップ二世に向けてコートを放った。
「うわっ何だよ!?」
「見ていて寒い。」
あろうことか雪が降った日の夜に、フィリップ二世は上裸という気候に挑戦的な服装であった。
「別にいいだろうが。俺は寒くない。」
ルプレヒトが投げたロングコートを床に払い落すと、フィリップ二世はベッドに腰をかけてサイドテーブルのランプをつけた。実際、天井にも電気は備え付けられているのだが、寝る時間を前にして点ける気もしなかった。
「入るならさっさと入んねぇと湯船が冷めるぞ。」
「……。」
文句を言おうとした口はその言葉で塞がれた。やれやれと思いつつ頭も振らずに、ルプレヒトはくたびれた白いワイシャツと黒い使い古したスラックスを持って浴室に向かった。
特に考える事もなく、いつも通りに風呂の時間を終える。
(……。)
鏡に映った自らの正面顔を見て、ルプレヒトはいつもは眼帯をつけている方の頬を撫でた。うっすらと残った傷跡の隣には、もう片方の赤褐色とは比べ物にならないほど色素の落ちたアンバーの瞳が自らを見つめていた。
「……はぁ。」
ため息を一つついて、手元にあった眼帯をつける。生前、零を銃弾から庇った時に負った傷である。ワイシャツを着ながら夕食時の話を思い出す。零と別れた、というのは本当である。しかし、零を愛していない、と言えるかはほとほと疑問であった。風呂に入るまで着ていた服を掻き集めて抱えると、ルプレヒトは浴室から出た。フィリップ二世のかすかな寝息が聞こえる。
(寝付くのが早いな……。)
音に敏感なルプレヒトなら、風呂の音を聞きながら眠るのは到底無理に等しい。背を向けてすっかり眠りこけているフィリップ二世を心底羨ましく思った。
「またお前はそうやって……。」
洗濯かごに服を放り込んで、月明かりに見える肌に苦言を呈す。[シシャ]に肉体的な寒暖差など関係ない。しかし、肩丸出しで寝ている姿は精神的に寒くなりそうで堪らなかった。フィリップ二世は寝息を立てているとはいえ、いつも浅い眠りで少しの気配にも反射的に起きる。ルプレヒトは足音を消してそっとフィリップ二世に近付いた。見れば、顔が向かっている方向には携帯端末が置いてあった。恐らく寝る直前までだれかと話していたのだろう。右手が端末に置かれているという事は、寝落ちしたという事だ、とルプレヒトは勝手に憶測した。しおれた羽毛布団をそっと引き上げ、フィリップ二世の肩までかける。明日天気がいいならばこの羽毛布団も洗濯に出すべきだろう。
「……。」
そんな考えが思いつく間もなく、ルプレヒトは指にふと触れたフィリップ二世の肌から慌てて離れた。いつもの荒い言動からは想像もつかない色白だった。決して赤みがかった色白ではない。むしろ病弱さを象徴するような青白さが、月明かりに輝っている。
(馬鹿か俺は。)
溜飲を下げるように更に羽毛布団を引っ張り上げて、ルプレヒトは視線を引き剥がすように自らのベッドへ振り向いた。今でも思い出そうと思えば思い出せる。帝國に在った時、フィリップ二世がその自我を持たずフィリップというただのスラム街育ちの青年であった時、拷問訓練の後に痛ましい鞭打ち傷を治すためになぞった、淡い背中の感触だ。
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