Verse 2-43
まず見えたのは、渋い顔だった。しかしその顔は決して年老いていない。
「僕あれだけ言ったよね。」
叱責と呆れと諦め。アルフレッドの声はその全てが混ざって消化し切れてない。ぼんやりと宙を辿って、零の視線がアルフレッドの顔があるのとは別の方向を向く。
「うん。」
弱々しげに零は頷いた。
「でも、俺はジークに助かってほしかったから。」
微笑む零の弱々しさに、アルフレッドは頭を抱えた。カルテを捲って、その場をなにも言わないまま去っていく。その日の冬空は、とても高かった。
摘出された弾丸を受け取り、ニコライ二世は頷いた。シャンパンゴールドに輝くそれは、確かにニコライ二世が劇場に向かって放ったものだ。
「フィリップに頼まれた。」
「確かにこれは左胸に的中してた。でも、その前に致命傷があるんだ。」
露わになったくぐいの胸部の写真を見せて、傷口を拡大する。隣にいた久志が呻く。無数に刺さった黒い羽は抉るように左胸の心臓にめり込んでいる。
「指揮者の前例から、彼女の攻撃の仕方が羽だったとしよう。何故これが胸に?」
「あの場にいたのは零、ジークフリート、そして私。他にはだれも。」
首を振るニコライ二世の隣で、史興が挙手とばかりに万年筆を立てた。
「実は俺達の下にニコライさんが通報したという連絡が入る前に、通報が一件来てたらしいんです。」
「らしいんです、とは?」
デスクに肘をつき、アルフレッドは眼鏡がずれ下がるのをそのままに史興に体を向ける。
「うちの婦警は確かに聞いたと言ってるんですけど、記録が残ってないんですよね。録音を切った痕跡もなく、データを消去した痕跡もなく。」
訝しげな顔の二人から視線を逸らして、久志は史興の顔を見る。
「他に心当たりを洗いざらい調べてみます。もしかしたら、銀承教だけマークしているのでは足りてないのかも。」
もっとなにか、と史興は唇だけを動かす。言葉は続かないが、しかし彼は確信していた。これは決して、新興宗教という枠には収まらない、もっと世界的な存亡に関わるものなのだと。
零とジークフリートは、同じ日に退院した。まだ暫くは、ジークフリートの洋館で共に過ごすらしい。
「ジークフリートは後二週間でROSEA本部に帰る事になったから。」
「了解した。」
一緒にジークフリートの愛車に乗って駐車場から出ていく二人を見送りながら、清張は煙草の煙を吐き出す。
「[シシャ]が操られた理由についてはまだはっきりしてないけど、ジークフリートの[燃料]と[回路]を調べた結果、咲口君に付着してた負の[燃料]っぽいものが流れ込んでたから多分それが原因だよ。」
清張から返答はない。アルフレッドは一度息を大きく吸って吐いた。
「あの二人そう言う関係だって知ってた?」
ピースの形をした手で人差し指と中指を何度かくっつける仕草をしていると、清張はそれを一瞥して再び駐車場に視線を送った。
「もとから。バスカヴィルとの関係も知っている。」
「流石ぁ……。」
その優秀さに少し引き気味で、アルフレッドは困ったような笑みを浮かべた。
「だからと言って切る気はせん。大体の事は……成るように成る。」
外套を翻して、清張は病院の屋上から去っていった。
* * *
ジークフリートの件を片付けて、二週間程が経とうとしていた。
「で? 俺に何しろって?」
コーヒーを啜って一言。清張から貸し与えられた洋館のリビングで足を組む。目の前にいるのはドイツ国土シュヴァルツ・アードラーだ。零のお抱えの摂理研究機関"ROSEA"の代理責任者である。フレグランスな装飾が施されたテーブルの上で、ぱらぱらと書類の薄い紙束を捲っていた。
「物の怪を知ってるか?」
日本でもう一つこなして欲しいことがある。シュヴァルツはそう言って、わざわざ日本で行われる主要国会議のスケジュールを縫ってフィリップ二世の下にやってきた次第である。
「物の怪? 知ってるぜ。妖とかそういうのだろ?」
「ああまあそうなんだが……。[妖魔]とはまた違うものだ。」
一つ礼を言って、シュヴァルツもまたコーヒーをすすった。挽きたて淹れたてのブラックコーヒーである。苦さの中に、仄かな香ばしい甘みを感じた。
「オレ達[シシャ]は既成の存在だが、物の怪は大衆が想像したり、呪いが固まったりして出来た概念の塊みたいなものだ。」
「成程、信じりゃそこにいるってやつだな。で、その物の怪とやらがどうした?」
ソファーの脇にあったサイドテーブルには、ジグソーパズルの形をしたクッキーがセーブル陶磁器の上に所狭しと並べられていた。クズを落とさないように、フィリップ二世は自作のしっとりとしたクッキーを歯に挟む。
「いつもなら放っておくんだが、全くの凡人にも見えるような物の怪という話が多数見受けられた為、確認次第討伐してほしい。」
「俺一人でか? ジークフリートは残念ながら帰国済だ。[人間]の状態の零に頼もうつったってなあ……。」
机を滑って書類が手元に寄せられると、フィリップは再びコーヒーを飲んで書面に吸い寄せられた。
「ダレか呼んだほうがオレもいいと思う。が、人選がいまいち測れなくてな。」
「確かに。ジャンは指環の警護、リチャードは研究。ニコライは実験についててもらったほうがいい。つーと他にいるのは――」
肘をついて、フィリップ二世は書面から視線を虚空に投げた。壁紙には蜂が等間隔に並んでいるだけだ。
「嫌だなあ、あいつだけは……。」
今まで出会っただれよりも扱いにくい、その一言に尽きた。シュヴァルツが帰った後、フィリップ二世は羊皮紙の前で進まない手を無理矢理右に進めていた。
(背に腹は変えられないとはいえ……。)
もう一生会わないだろう、という想像は切って捨てられた。アイスブルーの鋭い瞳を、写る炎が舐める。カーテンの閉まっていない窓からは、満天の星空が輝いていた。
* * *
数日後、ジークフリートとの通話を切って数時間。部屋の掃除を終えたフィリップ二世はチャイムの音を聞いてはたきを下ろした。寝室は一つ、ベッドが二つ。広いとはいえ、彼は少し疲れたため息を吐いた。
(ちゃっちゃと終わらせてえ。)
落ち着かなさそうなチャイムがまた、連続して二度鳴り響いた。
「はいはい、今行きますよ。」
エプロンを自身のベッドに放り出して、フィリップ二世ははたきをそのままに階段を降りる。
「……。」
「……。」
会いたくなかった。目を見るだけで、お互いの気持ちをなんとなく読み取った。
「他に適任がいるだろう。」
「他の適任は多忙なんだよ!いたらそっち呼んどるわボケ!」
黒の眼帯ではなく、白い医療用のガーゼ製眼帯をつけていたルプレヒトは表情筋を一ミリも動かさずに整頓された玄関に立ち入った。
「送ったコピーは?」
「一通り読んだ。怪奇現象の調査なんぞ初めてだが?」
寂しく飾ってあるコスモスの活けられた花瓶を一瞥して、ルプレヒトは階段を上るフィリップ二世の背中を追う。洋館は日本風にアレンジされたもので、ルプレヒトが思っていたよりひどく狭かった。
「そらこっちの台詞ですよ。なんだって俺がこんな地道な聞き込みの仕事を……。ほら、ここ寝室。」
手前のベッドにはエプロンが被さり、羽毛布団は起きた時のまますっかり剥がされていた。ルプレヒトは雑然と整えられたベッドにトランクを放り出す。
「飯は?」
「朝食なら既に済ませた。」
エプロンを畳んで洗濯かごに突っ込むと、フィリップ二世は盛大にため息を吐いた。ルプレヒトのトランクの中に入っていたのは、最低限の衣類と娯楽用の文庫が数冊である。まるで単身赴任の多いくたびれたビジネスマンであった。フィリップ二世は寝室の壁中央にかかる小さな振り子時計を見やった。十一時半を過ぎた頃である。
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