Verse 2-35
事件当日に学院に来ていた全員の聴取を終えて、史興と久志はすっかり疲弊したように楽屋で足を放り出していた。
「はぁ~関係ないのばっか。」
「当のくぐいさんからもあまりいい収穫はなかったしな……。」
その日はコンダクターもコンマスもいない状態では、ダンサー達はともかくオーケストラは完全に機能しない。わざわざ学院に足を運んでもらった事に礼や謝罪を何度も繰り返しながら、二人も漸く仕事から解放された所であった。
「あの~。」
開放されていた楽屋の扉から顔を出されて、久志は慌てて振り返る。黒髪の女性が、ヴァイオリンケースを持って立っていた。
「はい。あ、君はえーっと……コンマスの隣の席の人。」
「あっはい、そうです。あの、ジークフリートさんは大丈夫そうですか? ……いや、暴行されてこんな言い方はあれですね。改めます。調子はどんな感じでしたか?」
史興が、席を外す、と言って自動販売機へ向かっていくと、久志は彼女に向かい側の席を勧めた。ありがとうございます、と彼女は机の上にケースを置いて勧められた席に座った。
「少し落ち込んでましたが、まあ大丈夫だと思いますよ。」
「未然に防げなくて私も罪悪感が凄くて……。教えてくれてありがとうございます。あのコンダクター、バイセクシュアルなのは知ってたんですけど、まさか本当にジークフリートさんに目を付けてたなんて思ってなくて。……で本件なんですけど、実はくぐいさんについて質問された時に、私すっかりなにも知らないですって言ったんですけど、色々付け加える事を思い出して来たんです。」
戻ってきた史興の手には、三つの種類の缶飲料が握られていた。コーヒー、ミルクティー、おしるこである。どれがいいですか、と聞かれて、女性は暖かいミルクティーを申し訳なさそうに手に取った。
「それで、くぐいさんとジークフリートさんについて何かあったんですか?」
「あ、はい。勘繰るのも悪いとは思うんですけど、刑事さん達は多分、くぐいさんの事が容疑者だと思ってますよね?」
久志は史興に視線をやって肩を竦める。
「そこは我々にも守秘義務がありますので。ご想像にお任せしますよ。」
「そうですか……。で、くぐいさん、よく私にジークフリートさんについて聞きに来てたんです。うちの楽団じゃそう珍しくないですけど、彼は見るからに金髪碧眼でプライド高そうな顔なんで話しかけにくかったんだと思うんですが……。話してる内に、くぐいさんが、実はコンダクターの事を怪しんでて。時たま、ジークフリートさんが危なくないかこぼしてたんですよ。」
よく見てますね彼女、と史興はメモを書き起こしながら呟いた。
「まあ冗談半分に聞いてた私も悪いと思います。それは置いておいて、事件の日の夕方過ぎの話はご存知ですか?」
万年筆を動かす手を止めて、史興は片眉を上げた。女性は目にかかった前髪を払う。
「ご存知……というのは、ジークフリートさんが強姦された以外に何かきっかけになりそうなことがあったと?」
「振付師さんから聞いた話なんですけど、今日はセレモニーの打ち合わせで来てないので……。えっと、くぐいさんがジークフリートさんに迫ったって話を聞いて。本人から聞いてたら申し訳ないんですけど。」
「聞いてませんねぇ、どっちからも。」
気が付いたように、久志はおしるこを思い切り振り始めた。
「そ、そうですか。あの二人はオデットとオディールの話でよく稽古後に話してたんですけど、その日は一緒に寝てくれと迫ったとかなんとか聞いてます。人伝てですけど。今はもうダンサーとオーケストラでは専らの噂で……えっと、ダンサーは特に。」
ジークフリートから聞いていないのは当たり前である。彼は一応被害者であるから、丁重に扱わなければいけない。しかし、くぐいはどうだろうか。
「いやでも考えて見なよ。寝てくれって迫られて断られたなんて第三者の僕達に言えないよね。」
「そこはいいんだ。寝てくれと進言した理由はなんだ?」
車に乗り込んで、二人は運転席と助手席で息を吐いた。
「白鳥の湖のプリマ、白い羽根、死んだ指揮者。強姦された僕らの仲間。もう訳分かんないよ。」
「十中八九容疑者は彼女だ。もし彼女が銀承教の信者だとして……いやもう訳分からないな。」
シートベルトをして、史興はエンジンをかける。
「まあ、恋する女の子は怖いさ。人一人殺して罪悪感に暮れないくらいは、ね。」
「白鳥の湖、王子の名前はジークフリートで……。」
ハンドルを握って、史興はブツブツと呟く。
「……王子はジークフリート。」
「どうかした?」
突然ブレーキを強く踏み込まれて、二人の体は前のめりになる。
「湖で出会って、ジークフリートはオデットに求愛する。オデットが人間になる条件が、まだ誰も愛したことのない男性に愛を誓って貰う事だ。でも、ジークフリートさんは既に……。」
エンジンを止めて、先程胸ポケットに入れたメモ帳をめくり始める。なになに、と久志はメモ帳を覗いた。くぐいの求愛はジークフリートに拒否された。
「……これだと物語が狂うぞ。いやそもそも、そうだとしてオディールとロットバルトは誰だ……?」
* * *
数日後、零が学校から帰ると手紙が届いていた。ジークフリート宛のものだった。リビングで頭に入りもしない楽譜を眺めていたジークフリートにその事を告げると、開ける勇気がないので開けて読んでくれ、と言われた。
「えっと……。謝罪の言葉と、栃木にいた? 指揮者が急遽帰ってきて代理で務めるって書いてあるよ。」
「……本当か? 多分僕が懇意にした人だ。見せてくれ。」
手を出されて、零はソファーの背もたれに寄りかかってその手紙をジークフリートに渡した。
「そうか……。」
そう呟いた言葉は久し振りにどこか明るくて、とても安堵した声に零は聞こえた。少し微笑んで、制服から私服へ着替えてくる。であれば、今日は飛び切り料理に腕を振るわなくてはいけないだろう。今から夕食の食材を買い出しに行こうと勇み足で部屋を出ようとしたところを、ジークフリートに立ちはだかられる。
「夕食、外に食べに行かないか?」
「へ?」
奢るから、と言うジークフリートに零は虚を突かれたようにぽけっとした顔でジークフリートを見上げる。
「その……ずっと外に出てなかったからな。」
「……分かった。食べに行こ。でも徒歩圏内ね。」
甘える子供に妥協するような微笑みに、ジークフリートも顔は再び明るくなる。
住宅地を出てすぐにあるイタリアンレストランに足を運んで、二人は食事を囲っていた。中央には薄い生地のマルゲリータ、二人の前にはそれぞれボロネーゼ、真鯛とほうれん草のリゾットが置かれていた。
「成程、オデットとオディールの違い。」
「あぁ、そこの違いを出すのに苦労してるんだ。僕にはオディールにある女性的な魅力が分からない。」
ジークフリートにはイタリア産の白ワインが振る舞われ、零の手には赤い色の液体が握られている。
「俺はバレエに関しては全然無知だからなあ。」
大人の女性の魅力など、零さえ分からない。生前さえよく芸者やら舞妓やらからモテモテされていたが、当の零は全く女に気がなかった。理恵でさえ、大人の女の魅力があるかと言われれば首を捻る。あれはまた別物だ。
「難しいな……。」
喉が渇いて、零は思い切りグラスに入っていた十中八九ジュースであろう液体を飲み込んだ。いや、そもそも零自身ぶどうジュースを注文したつもりでいた。
「んぉえっ!!」
「零!? 大丈夫か!」
思わずグラスを戻して、零は苦虫を潰したような顔で口に入った液体を飲み込んだ。
「これ赤ワインだよ!」
「すいませ~ん!」
むせた零は、近くに置いてあったお冷をチビチビと飲み始めた。グラスの半分以上は既に空だ。ジークフリートから事情を聞いた店員が、頭をへこへこ下げながらグラスを下げて走っていく。
「ヒィ……。」
「だれも言わなけりゃ大丈夫だ……。」
秘密だぞ、とジークフリートはいつもの調子で口元に人差し指を当てた。
「うん!」
それはジークフリートへの肯定の返事でもあったが、元の調子に戻りつつあるジークフリートへの納得の声でもあった。
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