Verse 2-15
スタンダードルームに通された零は、運よく水に濡れなかったズボンはそのままで上だけ全て脱いで半裸になっていた。窓辺に座って駐車場所を眺めている内に、見覚えのあるクラウンが走ってくるのを見て少し体を揺らす。
「やっと来た?」
「大方、親父を送ってから来たんだろ。」
角燈館に案内されてから二十分程は経っていた。白い手袋をした史興が運転席から出てくるのを見て、ご苦労な事だ、と零は少し目元を和ませた。別に史興でなくとも運転手は雇えばいいのだが、清張に万一があれば、となにかと史興自身が聞かないのである。おかげで久志も療養とばかりに現在軽井沢の別荘に来ている。彼の場合は戦前の旧財閥一門の長男なだけあって、わざわざ借りなくとも軽井沢には別荘を持っていた。
「なんかもう一人降りてきたんだが。」
「お兄様が一緒に泊まってるって言ってたじゃな……、え? 車に乗ってたの?」
ベッドのスプリングで軽く遊んでいた理恵は、慌ててパンプスをつっかけて窓辺に駆け寄る。零よりも少し濃い褐色の肌に、綾子と同じ白銀の髪を持った、背の高い男だった。史興が後部座席の扉を開けると共に降りてきたのである。理恵が部屋の扉を開けて、周囲を見渡した後に退室する音を聞きながら、零は綾子の兄らしき男の頭を見ていた。礼を言われた史興が、零の洋服が入ったらしき紙袋を持って玄関に行くのを見送る。そして男は、ゆっくりと上を見上げる。白銀の睫毛に縁取られた男の、強い金色の瞳が零の瞳の視線を一直線に受けていた。一瞬、零の耳は一切の聴覚が遮断されたかのように無音を呼んだ。頭と意識がぐらりと揺れるがしかし、零の視覚は微塵のぶれもなく黄金の瞳だけを捉えていた。
「っ……のわ!」
必死で目を逸らして立ち上がると、椅子につんのめって床に背中から倒れこむ。幸い、大きな音は立たなかった。慌てて立ち上がると、理恵と史興が同時に入ってきた。
「着替え持ってきてもらったわよ~。」
「ついでに紅茶も淹れていただきました……。」
窓をさりげなく振り返ると、男はもういなくなっていた。零は理恵から洋服を受け取る。黒いウールのUネックシャツと、濃いブラウンのジャケットだった。
「島田さん、さっきの人は?」
既にしっかり色が出ていた紅茶をティーカップに注いでもらい、史興は顔を上げた。
「ここに泊まってる人の兄だと聞いてます。首相の別荘で大佐と一緒に話していたらしく、電話の事を伝えると一緒に送っていけと。」
「首相と知り合いなのか?」
ブラウンのジャケットを着込んで生地を伸ばすと、零は差し出されたティーカップを受け取る。
「いえ、正確には宮内庁長官のお知り合いらしいです。」
「あ、そっち……。」
紅茶はフレーバーティーだった。爽やかなハーブ系の香りとベリー系の香りが夏の暑さを忘れさせる。
「名前は明宏だと言うらしいです。送迎する時に大佐から聞きました。」
「何か引っかかるの?」
いや、と零はもう一度窓を見た。
紅茶を飲み終わった頃に、綾子が兄を連れて三人のいる部屋へ入ってきた。
「先程窓の外からも見たと思いますが改めまして、私の兄の東條明宏です。」
「初めましてお二方。本日は災難でしたね。」
にこりと笑って手を差し出した東條明宏に答えながら、理恵は上っ面の微笑みを浮かべる。
「初めまして、早乙女理恵です。」
あぁ、と理恵はなんとなく思ったのである。明宏の笑い方はとても甘い。仕草も育ちが良いのかとても柔らかく、しかしその雰囲気は非常に自信のあふれるもので、所謂プレイボーイという奴であると気付いた。そして、理恵は零が彼を気にする理由に思い当たったのである。
(貴方は零を幾ら翻弄すれば気が済むの……?)
離れていく手を見ながら、理恵は底のない謎を覗き見ている気分になった。
角燈館から帰って、観光と何気ない一日を過ごした零はすぐに自室へ引っ込んだ。暗い部屋でカーテンも閉めないまま、机の前の椅子に座って空中投影ディスプレイを出す。
『はい、現世界管理局ROSEAです。我が君、何かご用件が?』
「東條明宏という男を調べてくれ。」
スペクトラムアナライザが出ているディスプレイの隣に、通話相手のアヴィセルラが検索したパーソナルデータが出現する。
「ありがとう。」
『この男がどうかしましたか?』
アヴィセルラの言葉には答えなかった。ディスプレイをタッチして上まで動かす。転生の記録の一番最初の欄だ。特にこれといって目立った形跡はない。下へスクロールしていっても、生年月日と死没年日が並んでいるだけだ。
「……行方不明?」
一つの生年月日の下に、データ内ではあまり見られない言葉を見つけ、零はそっくりそのまま呟いた。
『珍しいですね。でも、ROSEAで追えなかった人はなにかと居ますし……。』
「一八六六年……。」
聞き返すアヴィセルラにまたもや答えず、零は指先を宙でぐるぐると回した。
「アヴィセルラ、バスカヴィルに関する報告依頼書とバチカンから貰った報告書を。」
『はい、かしこまりました。』
五秒も経たずに目の前に、第二次世界大戦の最中で受け取った報告書と、それに連なる依頼書のデジタルデータが出てくる。
『一八六六年、六月六日午前七時六分。イングランド南東部に位置するカンタベリー近郊の荒屋にて爆発的な[燃料]排出が確認された。早急に調査を依頼したい。』
お言葉ですが、とアヴィセルラは思考に飲まれかかった零の意識を引き戻す。
『我が君、明治期の日本人ですよ? しかもこの男が生まれたのは山中の閉じた村。イギリスに渡航しているとはとても思えません。』
「それは、そうだな……。」
膝に肘をついて、零は組んだ手を額に押し付ける。瞳を閉じていると、バスルームが空いたという声が聞こえた。
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