Verse 2-10
逸叡が学習院大学三年生である事は別に虚偽の経歴ではない。四年程前から、逸叡は人間界での活動を既に初めていたから、彼は順当に学習院大学に入学し、学問の研鑽を積んでいた。だから、彼は一年の頃から弓道部に入り、手加減もなく的に当てていたらいつの間にか、一年の下期には学習院大学弓道部の主将になっていた。
二年になった時の大川照子を覚えている。まだ垢抜けない女子、高校生の気分が抜けない大学生だった。中学生の頃から長らく弓道部に入っており、大学でも続けたいと体験入部に来た時から背中に視線を受けていた。
今思えば、と逸叡は思う。その視線はどこか見覚えがあった。親族の影響で哲学科に入ったと聞いた時点で既に思い出すべきだったのだ。
* * *
傷口が痛むのがよく分かる。しかし、もう一度意識が遠のく前に、久志は自らの思考を現実に引き戻した。
「おはよう。」
右にはデータを眺めるジークフリートとフィリップ二世が、左にはバインダーでなにやらリズムを作っているアルフレッドが座っていた。
「……病院ですか?」
「理解が早くてよろしい。」
アルフレッドが微笑むと、久志はベッドの中で手を動かした。腹にはすっかり包帯が巻かれている。
「残念ながら自然治癒よりももっと時間がかかると思う。でもちゃんと通院すれば治るから気にしないで。で、起き抜けに悪いんだけど刺された近辺の記憶を覚えているかい?」
目を閉じて、久志は眉を寄せた。額に手を置いて、どうにか記憶を戻そうとする。
「えっと確か……。坂本に会った後にカフェに寄って、その後接触していた銀承教の信者さんと話しました。」
走り書きを施すアルフレッドのペンの音を聞きながら、久志は目を開いた。明るい茶色の瞳がジークフリートとフィリップ二世に注がれる。
「信者の名前は?」
「大川照子、学習院大学の二年生です。哲学科に所属していて、弓道部で女子の主将を務めていました。それなりに裕福な家で、家族も銀承教の信者さんでした。坂本とは部活で知り合って、その中では一番仲が良いと……でも彼は内心ウザがってましたね。」
坂本、と言う名前が出て、アルフレッドは呆れたようにバインダーを下ろした。
「どうして逸叡と会っていたのを話さなかったんだい……?」
「すみません、話さない約束で……。逸叡は弓道部に彼女が入った頃から懐かれたらしいですね。でも逸叡はそう言うの好きじゃないみたいで。基本、僕や佐藤みたいなのがいないと馴れ合わないんですよ。プライド高いですから。外面だけはいいんですけどね。」
雑木林に思い切り叩きつけられて、逸叡は呻きながら起き上がった。綺麗に分けていた七三がすっかり乱れている。
「あっかんわぁ、ボロボロやないかぁわいの刀。」
(おまけに切り傷も治らへん。)
刀の刃がすっかり毀れている事に気付いて、逸叡は刀を投棄した。木々の狭間から見える空を見上げた。満月の煌々と輝く夜だ。
「頭おかしなったかなあ。」
「別におかしくありませんよ。」
逸叡の体が軽々と空を飛んだが、彼は芝生の上に上手く着地した。照子も身体中に切り傷を負って、服の至る所が破けていた。
「ほんなら質問に答えてもろか。」
どうぞ、とばかりに照子は首を満足げに傾げた。黒い髪が月の光を受けて艶めく。
「[神]の死、言うんは銀承教の教えやろか。」
細い黒髪を一本、耳にかけて照子は星空を見上げた。
「……本当は教えてはいけないんですけど、私は坂本先輩の事が好きなのでサービスで教えて差し上げます。その通りです、私達、銀承教は、教祖様を神とし、この世界を作った既存の[神]様を殺す為に生まれました。大抵の信者さん達はそれを理解していません、教えられもしていません。彼らはいざとなれば切る事の出来る手足でしかありませんから。幹部級と、私のような熱心な信者にしか打ち明けられていない悲願です。」
少し不敵に微笑んで、照子は黒髪を抑えながら逸叡に向き直った。
「でも残念です。てっきり坂本先輩はあの人のお仲間だと思っていたので。」
再び首を傾げて、照子はにっこりと微笑んだ。
終わった、と零もグリゴーリーも同時に頭に浮かんだ。
「いい度胸ではないかラスプーチン。その男に与するとは。」
前に腕を出されて、零もじりじりと後ろに下がる。グリゴーリーはフードを外した。強くなった雨が頬を打つ。
「そちらこそいい度胸だ。この男に剣を向けるとは。」
雨に濡れることもなく、アーサー王がそこに立っていた。黒いマントを春風に揺らして、ゆっくりと歩み寄りながら剣先をラスプーチンに近付ける。
「漸く私の願いが達成されると思いきやお前達に裏切られてこの様だ。せめて大人しくしていればいいものを。」
横に出ていた零の腕を引っ張り、グリゴーリーはその背中に青年を庇った。剣先に指で触れて、ラスプーチンは少し外していた青白い瞳の視線をじろりとアーサー王に向ける。
「一つ聞こう。そんなにこの世界を壊したいのか?」
「無論だ。これがある限り、私の安寧は訪れない。」
ギラついた視線はアーサー王の歩みを止めた。直視すれば一生忘れる事の出来ない瞳である。アーサー王の突きつけた剣先が一瞬震えた。
「では質問を続ける。何故この青年が憎い?」
赤い瞳が見開かれたのをグリゴーリーは見逃さなかった。動揺が走っている。揺れる瞳を見るや否や、グリゴーリーは唇を釣り上げた。
「よもや生半可な理由でこの男を殺すまいなアーサー王。この男は私が[神]と認めた男、何人たりとも侵害する事は許さん。」
冷気が大地から吹き上がるや否や、雨水が一瞬にして凍りついてアーサー王を襲った。慌ててマントで体をかばったアーサー王を見とめ、グリゴーリーは今まで沈黙を守っていた零の腕を掴み上げて走り出す。
「どういう事だ! 何故銀承教を追ってたらアーサーが出てくる!?」
「逸叡とあの女の会話が耳に入っていなかったとみえる。それとも思考が鈍ったか?」
零の走りにスピードがついたところで、グリゴーリーは彼の腕から手を退けた。零が横に並んだのを確認してちらりと後ろを見る。アーサー王の姿は見えない。
「銀承教とやらがお前の死を望むなら、アーサーも目的は同じと言う事だ。」
「支援をしていたと?」
グリゴーリーは頷く。
「しかし、そうなるとアーサーは俺達より随分前から銀承教の目的を知っていた事になる。」
「そうだな……。」
逃げ始めたバス停が見えたところで、二人は振り返った。アーサー王が追いつく足音が聞こえる。グリゴーリーの手の中に氷剣が現れる。
「零、一つ提案がある。」
「ちょうどいい、俺も提案があった。」
金属の擦れる音が、雨音の間を縫って隣から聞こえる。ではそのように、とアーサー王を前にして、二人は目配せもなく頷いた。
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