Verse 2-9
家で一緒にケーキを食べないか、と言われ、零は逸叡の後についていくことにした。敵とはいえ逸叡はある程度良識がある。自分が持っていない情報を聞くには打ってつけの相手だった。
「刺されて失血、なあ。」
「言葉を返すようだがお前こそ何をしていたんだ? 咲口さんからなんの報告も受けてないが。」
ビニール傘と和傘というあまりにもアンマッチな円二つが、住宅地を外れた丘沿いにある広いアスファルトを歩いていく。
「まあそら、会ったことを秘密にしといてもらいはったからなぁ。」
春に降りしきる雨は寒さをもたらした。ジャケットを脱いだら確実に凍えるだろう。曇り空を眺めていた逸叡は、ふと足を止めた。
「……どうした。」
「こんな開けた場所でストーカーは感心しまへんな。」
逸叡を一瞥して、振り返る。白銀の首飾りをした女性が一人、傘も差さずに立っていた。
史興が帰ると、アルフレッドは一枚の紙を、向かい側に座っていたジークフリートとフィリップ二世に見せた。
「それは?」
「咲口君の腹部に残っていた[燃料]のパーセンテージだよ。これは彼が吸い上げたものじゃない。最も、もしこれだけ吸い上げてたら彼は病院に来ずとも傷を修復出来た。」
二人の目の前に空中投影ディスプレイが飛び出てくる。
「ここに来た時点で、五十パーセント以上残ってる。僕ら[シシャ]一人が通常体内に流している[燃料]の平均値が百パーセントとしたところの値だ。」
「それで五十パーセント以上は相当だな……。」
ディスプレイサイズをアップしながら、ジークフリートは顎に指を当てた。
「[シシャ]が刺したってことか?」
「僕はそうは思えない。」
手に持っていたバインダーをテーブルの上に置いて、アルフレッドは徹夜で乱れた前髪をいじった。落ち着いた橙色が指にかかる。
「[シシャ]がやったならこんな生半可な殺し方はしない。戦力を削ぐ為にやるなら確実に心臓を抜くだろう。」
手を開き、俯いていたアルフレッドは、あり得ない、とばかりに肩を竦めた。
「なら考えられるのは[人間]だけだ。しかし彼は[使徒]だ、[人間]に遅れをとるとはとても思えない。」
フィリップ二世は足を組み直した。腕を組んでアルフレッドの話を静かに聞いている。
「彼が一番最近に接触した中で[燃料]が検出されたのは?」
顎から指を離し、ジークフリートはいつもの真面目な表情で呟いた。
「銀承教か。」
今日は満月ですね、と言われて零は思わず上を見た。しかし、まだ憂鬱で雲の重い朝だ。
「なにゆうとんのや照子はん、こないだ満月なったばっかやろ。」
逸叡は、ケーキの箱をすぐ真横にあったバス停のベンチに置く。零のビニール傘を持つ手に力が入る。
「土曜日、講義あるんとちゃう?」
「はい、でも今日は自主休講しました。」
照子の体を伝う雨水は、やがて赤くなっていく。しかし、二人は彼女から離れていてその様子がよく見えなかった。
「で、わいに何か用? これから一緒にケーキ食べるんやけど。」
しかし、逸叡はケーキを置いた時点で分かっていた。これは一筋縄ではいかない、と。零とケーキを食べる気などとうの前に失せていた。
「いえ、用事があるのはお隣の方なんです。」
零と逸叡はお互いの顔を見た。
(あんさん知り合い?)
(いや、初対面だ。)
そして同時に彼女を見た。逸叡も訝しげに細い片眉をあげた。照子が一歩踏み出た時、自らも踏み出そうとした逸叡を零は腕を突き出して遮った。
(殺気だ!)
アスファルトを蹴る音が聞こえる。今更のような春一番が吹いた。
「燃料が付着してたなら咲口は自分で回復出来るんじゃねぇの?」
「そう思うよね。僕も初めはそう思った。」
アルフレッドは深く頷きながら二枚目の紙を見せた。二人の前にあったディスプレイの画面が切り替わる。螺旋状のなにかが渦巻いている様子だ。
「これは……DNAの螺旋か? それにしては形は若干異なるが。」
「そう、DNAとはちょっと違う。これらは僕らの体の中に取り込まれ、[核]や心臓から放出された[燃料]だよ。ただの光の帯に見えるものの正体だ。[人間]に取り込まれても、これは血中には漂わずに血管を巡る。そして咲口君の腹部から検出された[燃料]がこれ。」
隣に映し出されたデータに、二人は目を吸い寄せた。
「逆螺旋だ。」
「これがなんだってんだ。」
二人はディスプレイから顔をあげる。
「咲口君の腹部の傷跡はそんなに深くなかった。忘れたかい? 彼は悠樹部隊の初メンバーの一人だ。被害者にこんな事言うのは申し訳ないけど、刃渡り十五センチであんなぜえぜえ言ってたらスパイなんて出来っこない。フィリップ君がROZENにいた時にやっていたように、彼だって痛覚遮断が出来る。自分で腹部を圧迫して血を抑えつつ救急車に電話だって出来た筈だ。それが[人間]の頃に出来たなら[使徒]なら余裕だろう?」
そして、アルフレッドは空いていた片手でボードを二度叩いた。
「その答えがこれだ。咲口君の記憶の経歴を見たところ、これは痛覚を増長させ、人体にある傷を広げることが出来ると考えられる。もう少し短絡的に言うと、精神的にも肉体的にもこの[燃料]は人をある意味で蝕む。僕らが持っているのが正の[燃料]なら、咲口君にくっついていたのは負の[燃料]。正の[燃料]はこの世界のあらゆるものを構築して保ち、負の[燃料]はあらゆる構築物を分解するんだよ。」
「それ、咲口の体以外で実験したのか?」
アルフレッドは背後の引き出しを振り返った。上に置いてあったガラス製のなにかを掴み、二人に見せた。ビーカーである。
「これはROSEAから配布されてるビーカーでそれなりに耐久性があるんだ。報告するのに入れておいたらこの通り。」
ビーカーは既にただの筒だった。底は溶けたように穴が空いている。
「唯一の救いは、これが[燃料]だから使えば消える、って事。このビーカー、僕の机の上に置いてたけど、ビーカーを分解したら消えちゃったみたいで、僕の机は無傷だった。」
「しかしどうしてそんなものが?」
ビーカーとバインダーを引き出しの上にほうって、アルフレッドは目頭を揉んだ。
「そこなんだよねぇ、一体どこでこんなものが作られているのか。[人間]がこんなものを作れるとは思ってないけど、だけど[人間]以外に当てがないんだよ。」
珍しくアルフレッドは自らが座る椅子のへりに片足をかけて、再び俯いた。
少し湿気た香りの中に、仄かな鉄の匂いが混じっていた。零の目の前で少しばかり広い背中が少し屈む。揺らいだ黄色いマフラーが零の頭の上に被さった。
「ラスプーチン……!」
「離れろ馬鹿者!」
腕で外に追いやられて、零は後ろにあったバス停のベンチに仰向けに倒れる。頭の上でケーキの袋がガサガサと鳴った。グリゴーリーは照子のナイフを持つ手を一捻りしてすぐに前に投げ飛ばす。
「なんやあ、あんさんもストーカー?」
「だれもあれを保護出来る輩がおらなんだから来た。お前が相手しろ。私は連れて逃げる。」
雨粒が落ちるのも御構い無しに、逸叡は弧を描いて和傘を下ろした。
「しゃあないなぁ……。ほんならそっちは頼みますわ。」
グリゴーリーが一歩引いたのを見て、逸叡は傘を腰に構えた。
「お相手して下さる? 嬉しいわ。」
逸叡は目を細めた。ゆらりと立ち上がる照子の体には傷一つない。
「あんさんら、一体何が目的や?」
腰を後ろに引いて体勢を低くする。照子が軽く舌舐めずりをして駆け出した時、逸叡の和傘が一瞬にして唐太刀に姿を変える。二人の鼻先が今にも触れ合おうと言う距離に来て、照子は囁いた。
「[神]の死を。」
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