Verse 2-8
書類を整えて帰路に着いた史興は、日付を超えそうですっかり落ちそうな瞼を上げた。春先の生暖かい風は実に過ごしやすい。
(そろそろ大佐の家でも花見が出来る頃か。)
終戦して数年後から始まった小さな行事である。毎年この時期になると、清張は自らの邸宅にある広い日本庭園で花見をしていた。その日ばかりは史興も久志も悠樹邸の二階にある洋部屋に宿泊することが常となっていた。桜の生垣の下で、朝から夜まで重箱をつつきながら酒をあおるだけの自堕落な催しである。史興は自宅の見える通りに入った。窓に明かりはない。こんな時間だ、久志は既に風呂も済ませてベッドに寝ているのだろう。
(あまり音を立てないようにしないとな。)
玄関ゲートの前に立って、史興は首を傾げた。久志は史興が夜遅くに帰る時、いつもリビングと玄関の電気を付けっ放しにしている筈だ。しかし、家の中から灯りが漏れていないどころか、カーテンが一つも閉まっていないのである。
「……?」
ゲートのドアノブを回すと、ぬるりと手が滑った。少しだけ回転したドアノブがすぐに元の位置に戻る。途端に頭にスイッチがかかった。
(鉄の匂い……。)
掴んだ手を近付けなくても、息をするだけで分かった。ドアノブを眺めていた顔を上げる。玄関扉の取っ手が一部黒くなっていた。史興はゲートを開ける事なく、軽々と乗り越えた。玄関扉まで続く石畳の道に落ちる黒い斑点を眺めて、小走りで玄関扉に鍵を差し込む。手応えはなかった。
「久志!」
扉を開ければ、階段と廊下が目に入る。どちらにも斑点はない。
「ふ……み――」
下駄箱にもたれている久志の顔は蒼白だった。ベージュ色のトレンチコートは、ベルトのあたりがすっかり赤黒く染まっている。
「ま、待て喋るな。今救急車を――」
「し……ょ。」
アルフレッドに渡されていた携帯電話を取り出すと、史興は口を動かす久志を振り返った。しかし、腕を掴んだ手は既に緩みきって、そこにはか細い呼吸をする久志が倒れているだけだった。
* * *
にわかに慌ただしくなった夜の病院の特別待合室で、フィリップ二世は煙草を吸っていた。
「何だ?」
「様子を見てくる。」
煙草を灰皿に押し付けて、隣で壁にもたれていたジークフリートは特別待合室を出た。蛍光灯で仄かに照らし出された廊下を歩きながら、ジークフリートは音が聞こえる方を確認する。ストレッチャーが高速で移動する音が聞こえて、ジークフリートはその廊下に繋がる廊下に姿を現す。
「おっ……と。」
「すまない。忙しそうだな。」
突然前に出てきたジークフリートを、アルフレッドは慌てて受け止めた。片手にはなにやら紙束を握っている。
「ごめんね、もうちょっと待っててもらえると嬉しいよ。」
「何があったんだ?」
ストレッチャーは既に通り過ぎた後で、ジークフリートの目に入る事はなかった。
博人と勇斗が[燃料]を操る訓練をしている音を聞きながら、零は縁側の柱に寄りかかって小型の空中投影ディスプレイを睨んでいた。博人の起こした突風は生暖かく、時に春の甘い香りを運んでくる。
「明日土曜日だよね! 何しよっか!?」
勇斗の拳を受け止めながら、博人はそう叫んだ。
「取り敢えず朝起きたらジョギングだ!」
鈍い音が聞こえる中、零はエプロンの紐を解く理恵を見上げた。
「お父様、帰ってこないわね。」
「今日は夜遅くでも帰ってくるって言ってたがな。」
噂をすれば、玄関の引き戸を開ける音がした。お帰りなさい、という継子の声は少し驚いて上ずっている。確かに、いつもより開け方が荒々しい。零が立ち上がると、博人と勇斗もそれにつられて訓練を中断した。
「親――」
玄関に出て声をかけようとした零の目の前を、せわしなく清張が通り過ぎていく。春用の薄手の外套が廊下になびいた。
「た、大佐?」
珍しく落ち着きのない上司の背中に勇斗は呼びかけた。なにかを探して自室の箪笥の前を右往左往していた。零も、そのおかしな様子を察知して顔を出す。
「どうかしたのか?」
継子が無言で湯呑みを目の前に突き出すと、今まで黙っていた清張はようやく我に帰ったように動きを止めた。自室を覗く息子と同居人達に気付いてそちらに視線を注ぎ、彼は無感情に言った。
「咲口が刺された。」
鹿おどしが、音を立てて水を運んだ。
史興が久志の病室に通された頃には、既に午前四時を回っていた。椅子に座っているアルフレッドの向かいには、たまたま待合室にいたジークフリートとフィリップ二世が立っている。
「二人ともどうぞ、入って。」
ベッドで安らかに眠る久志に呆然とする史興の背後には清張がいた。背中を叩かれ、史興はすごすごと白い病室に入っていく。
「凶器はご存知の通り刃物だ、刃渡り十五センチ程の物で腹部を一突き。争った形跡も強姦された形跡もなし、至って綺麗だよ。」
「死んだみたいな言い方はやめてくれ。」
史興の悲鳴めいた呟きに、アルフレッドは眉を下げた。久志は死んでいない、現に目の前できちんと呼吸を繰り返している。
「ごめん、ニューヨークで検死官やってた時の調子が――」
「いい、続けろ。」
バインダーに止めたデータを見返しつつ、アルフレッドは頷いた。
「刺された時刻は十九時半頃。現場の血量の具合などからの計算。島田君が二十三時に戻るまでよく耐えたね、失血死寸前だったよ。」
掛布団から少しだけ出ていた久志の白い指先に触れ、史興はその冷たさに身震いした。まだ血が全体に行き渡っていないようだ。衣擦れの音がして前をみると、清張が面と向かって立っていた。
「島田、一度捜査を外れろ。」
「ですが、……。分かりました。」
よろしい、と清張は頷き、通りすがりざまに史興の肩を二度叩いた。
「お前の気持ちはよく分かるが、被害者の関係者である以上はな。」
革靴の足音が病室の扉の向こうに消えていく。史興は、俯いて久志の顔を黙って見ているしか出来なかった。
「なんやあ、けったいなとこになっとんなあ。」
朝一番にかけられた言葉はそれであった。零が振り返ると、春の生温い雨を遮るように和傘をさす逸叡がいた。
「何か知ってるか?」
「昨日は会うたばっかや。あんさんこんなとこで何しとん?」
お前こそ、と言わんばかりに零は逸叡の手に下がっている物を見た。半透明のビニール袋の中には、ケーキが収まっているだろう箱が入っている。
「調査。」
ビニール傘を肩にかけて、零は史興と久志の住む一軒家を見る。零の腰の位置にはキープアウトのテープがびっしりと貼られ、赤いコーンが立ち、その向こうにはランプを回すパトカーが数台と、鑑識や刑事が立っていた。
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