Verse 2-7
講義が終わって帰路についた逸叡は、ふと思い立って踵を返した。後ろでは、リヤサの裾を翻して男が歩いていた。山道に踏み込んで十数分、ついに男が口火を切る。
「で、なぜ私を呼ぶ。」
「知り合いにあんさんしかおらへんからや。黙って歩きいや。」
フードのように顔を覆うマフラーに時々枝を引っ掛けながら、逸叡の身長を越すその男は苦労性なため息を吐き出す。暫く歩くと、開けた場所に出た。今はなにもないが、数日前までは銀承教が大規模な集会の為にテントを建てていた。
「電話で言っていたのはここか?」
「そうや。今日咲口久志さんゆう昔の先輩はんと会ってなあ。ここの[燃料]放出量がおかしいゆうとったから。」
男はフードに手をかけた。青白くぎらぎら光る瞳が辺りを見渡す。
「……確かに地中にある[回路]の管の幅が極端に広くなっているな。現状、地上放出量は別に問題はないが? 一時的におかしかったと言いたいのか。」
「誰がやったかまで分かります?」
グリゴーリー・イェフィモヴィチ・ラスプーチンは太い片眉をあげた。青々と茂る芝生に片膝をついて、グリゴーリーは手をかざした。
「いや、痕跡だけでは分からんな。」
「ほんなら質問変えますわ。何がやったか分かります?」
芝生の先を見つめていたグリゴーリーは、背後で仁王立ちしている逸叡を振り返って見上げた。
「質問の意図を読みかねる。」
「わいらの同類、つまり[シシャ]がやったんか……、それともあんさんが昔に会ったような、魔術師、とやらがやったんか。それとも全く別の?」
逸叡の質問に答えることもなく、グリゴーリーは立ち上がって手についた露を払った。
「そこの違いは、[燃料]を自らの体内に吸い上げるか、それとも地上に引き出して自在に形を変えるかのどちらかだ。これだけでは分からん。だが――」
グリゴーリーが振り返ったのに気付いて、逸叡はその顔を見上げた。視線の先は逸叡がいるのとはまた別の方向に注がれている。
(あの女は?)
いつの間にかグリゴーリーは目深にフードを被っていて、その青白い瞳の強烈な印象は影を潜めていた。その視線の先では、一人の女性が半身を木の幹に隠しながら慌てて頭を下げていた。首元できらりと白銀の首飾りが光る。
(あー……、大川照子って、わいの後輩。)
逸叡が手を振ると、大川照子はもう一度深く頭を下げる。
「どうしたん?」
「こ、この間の集会に出られなかったので、一回お祈りでもしていこうかと思って……。」
咎めるようなグリゴーリーの視線が逸叡に刺さったが、逸叡は気にもせずにえへらえへらと笑っている。山の雑木林から見える空はすっかり金色の光を受けて橙色に輝いていた。
「坂本先輩は、その、こちらで何を?」
「いやあ、この間集会行っとったらハンカチ落としてしもうてなぁ。往復路にあらへんかぁ探しにきよったんやけど。」
そうだったんですね、と照子は慎み深い笑顔で両手のひらを合わせた。注目されたグリゴーリーは、ただのお付きだ、と顔を背ける。
「坂本先輩は、この間の大集会に?」
「へ?あぁまあ、社会勉強と称しておったけども……。その話今やないとあかん?」
腕時計をちらつかせると、照子はまた申し訳なさそうに二回頭を下げた。
山の周囲を囲むようにある道路の歩道を歩きながら、グリゴーリーと逸叡は沈みゆく太陽を傍目に歩いていた。
「あの女、かすかに体内に[燃料]が残っていたが、どういう手合いだ。」
車通りも少なく、歩道から少しはみ出して二人で並んで歩く。聖職者と大学生、端から見ればあまり近付きたくない組み合わせである。
「最近日本の巷で流行りよる銀承教の熱心な信者さんやけど。……さっき見せたとこも、この間その集会があったんや。だれかしらが[燃料]を地上に放出させて、集団に浴びせて放心状態にしとんやけど、……それ吸い込んだのが残っとんちゃう?」
「だとしても高濃度過ぎるが。残滓ではないぞ、そのものだ。あれだけ落ち着いて会話出来ていたのが不思議なくらいだ。」
グリゴーリーの言葉に耳を傾けていた逸叡は、ふむ、と息をついた。車が三台程、二人の横を走り抜けて行った。
「そんで、そういうやり方出来るのは?」
「……魔術師だな。」
夕方。カフェで清張に報告することを、久志はぼんやりと頭でまとめていた。おかわり自由のコーヒーの中をかき混ぜていると、刻一刻と時間が過ぎる。
(……今日は史興のが遅いんだっけ。)
夕食は外で食べてくる、と今週の頭に言われたのを思い出して、久志は深々とため息を吐いた。史興との二人暮らしは良いものだ。しかし、彼がいないと久志は家で一人きりになる。人の雑踏も会話も、気分を紛らわすものは一つもない。こういう時ばかりは、悠樹邸が恋しくなった。
「あの……。」
いつの間にか外には街灯の光が溢れていた。地平線のすぐ上だけが橙色になっている。久志は顔を上げた。真向かいに、この間逸叡が紹介してくれた女性が立っている。
「えっと……照子さん。」
「はい!」
純粋で元気の良い微笑みは大学生というよりは中高生を彷彿とした。
「咲口さん、でしたよね。人違いじゃなくて良かった。ご一緒してもよろしいですか?」
「は、はあ。どうぞ。」
自分なら見て見ぬふりをする、と久志は思った。思いつつ、前の一人がけソファーを勧めた。彼女の手には、季節限定の桜フラペチーノが握られている。
「それ、美味しいですか?」
「勿論! 高校生の頃から、この時期になったら欠かさず飲んでます。」
にこにこと人畜無害な微笑みを浮かべる照子に、久志もまたにこりと笑う。
「久志さんはこちらで何を?」
「今日は逸、人君に会ったので、近くのカフェでも入ってみようかなと。」
二人がいるのは、チェーン店ではない自営業のカフェだ。学習院大学の四限が終わって暫く経った今でも、人は少ない。蓄音機から流れるのは戦前のジャズやクラシックばかりの静かな店だった。
「えっと、坂本先輩とはどういうご関係なんでしたっけ……。」
「そう特別な関係でも。中学校からの同期ですよ。」
久志が足を組んでコーヒーを飲む姿は、まるでカフェ全体を一瞬で古めかしいサロンにするかのようであった。
「それでも、お互い別の大学に来て話すって、とっても親しいんですね。」
「いやまあ、たまたま近いので。山ノ手線に揺られていれば着きますからね。一番仲の良かった一人でもありますし。」
なにかが気に障ったのか、照子は少しふてぶてしい顔でフラペチーノを掬っていた。
「……照子さんのお話も少しは聞きますよ。弓道部で主将だとか。」
「さ、坂本先輩に比べたらまだまだです……。あの方になんてまだ程遠くて。」
横髪をかき分けながら俯いて赤らむ照子に対して、久志は少し遠い目で天井から釣り下がる花形のランプを眺めた。
(だろうなあ、逸叡十本射れば十本は取り敢えず的の真ん中寄りにに当たるし……。)
コーヒーカップをソーサーに置くと、久志は思考を現実に引き戻した。
「大学では哲学科で竹取物語を研究してるっていうのは、本当ですか?」
「はい。かぐや姫の心理を哲学的な面から研究してます。」
久志は眉を寄せた。一体かぐや姫のどこに哲学的に見る要素があるのか。あまり哲学が好きになれた試しはないせいか、少し胡散臭く感じた。
「えっと、具体的にどういう……?」
「今はまだ少し不明瞭で……。ただ、かぐや姫は志のないものとは結婚しない、と言っていいたのが嘘なのか本当なのか。今はそれがとても面白くて。」
はあ、と久志は曖昧な返事をした。
「あれは僕は嘘だとばかり思ってました。」
「えぇ、今まで聞いた人は皆そう言ってました。でも、かぐや姫は最後に、帝へ不死の薬を渡しますでしょう?」
情けじゃないのか、と久志は半眼になる。御伽話の話をするには自分はあまりに現実主義者すぎるのかもしれない、とかぶりを振った。専門外の話はもうよそう、と質問に答えないでいると、輝子は微笑んだ。はあ、と久志は訪問勧誘を受けた妻のように返事を返す。ドリンクを一口飲むと、次は照子が話を切り出した。
「あ、あの……坂本先輩の高校生の頃って、どんな感じでしたか?」
「へ?」
そういう質問が繰り出されるとは思ってもみなかった。咲口は、とんと他人同士の好意と嫌悪に無関心である為に、その質問の意図さえ掴めない。
「えっとー……そうだね。嫌味とかよく言う人だったけど、成績はとても良かったよ。僕とは境遇が似てたから仲良くなったんだ。人気者ってわけじゃなかったけど、人を笑わせるのは上手かったから人に嫌われることはあんまりなかった……かな?」
照子の質問に永遠と答えていれば、いつの間にか三日月が煌々と濃紺の空の海に輝いていた。どうやらお互いに自宅が近かったようで、久志と照子は電車を降りて尚、同じ方向へ歩いていた。
「こんなに近いなんて思いませんでした~。」
「そ、そうですね。」
流石におかしい、と久志は思ったが、この極普通の、ある程度裕福な家庭に産まれたように見える女子大学生が害をなすとも思う事は出来なかった。職種上疑ってかかるものの、彼女を害と判定するにはいささか材料が足りない。
(まあいっか……。)
そろそろ家の見える通りである。久志は半歩後ろを歩いている照子を振り返った。
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