Verse 1-7
その日の巡回は特に何事もなかった。理恵とフィリップ二世の二人が、昨日訪れた都心とは全く逆方向の住宅地を巡回したのがハズレだったようだ。
(これも解決済みだな。)
清張は内務省の警察関係の組織を勤めており、零に伝えた通り近日通報のあった事件について諸々を調べる最中であった。空調のない寒い書類保管室にて、黒い外套を掻き寄せながら次々に紙を手にとっては足元に置いたり戻したりしている。
「……成程。」
ざっと目を通して共通しているのは、千代田区千代田一丁目という住所だ。手当たり次第に現行未解決のうちでその住所が書かれている書類を手にすると、清張は書斎机に戻った。
「千代田区千代田一丁目、不審な光が見えると言う人あり、突然、近くを通った人が叫び出した、暴れ出した。意味不明な言語を発する、など……か。」
事件の詳細欄を読み、清潔感のある真っ白い手袋を嵌めたままの手で捲っていく。もう一つの共通点は、通報で駆けつけた時にはまるで糸が切れた人形のように脱力してその場に倒れ伏しているという事だ。病院での検査結果には、薬が原因の幻覚症状、異常な興奮状態などと書いてある。
「こんな昼っぱらから外に出ていいのか。」
よっこいしょ、という声が背後の窓から聞こえて清張はすぐに執務室の鍵を、椅子に座ったまま指を動かすだけで施錠した。
「平日は島田君達の稽古もなくて屋敷にいても暇だからね。首尾は?」
読み終えた調査書の束を背後に立っているアルフレッドに見せると、アルフレッドはふんふんと頷きながら眼鏡をかけ直す。
「成程成程。」
「何か分かるか?」
いつもの嗄れたアクセントのあまりない声を聞きながら、アルフレッドは書斎机の前に置かれた青緑のベルベットが張られたソファーに足を組んで座った。
「まあ薬物摂取じゃないねこれは。[核]から流れる[燃料]を適正以上に摂取した[人間]の反応だよ。」
「詳しいな。人体実験でもしたのか?」
アルフレッドは書類に視線を落としたまま眉をひそめて肩を竦めた。ぺらり、ぺらりと人差し指だけを使って紙を捲った。普段なら憤りを感じるところだったが、清張程アルフレッドを知っている人ともなれば、冗談であるくらいは承知である。
「違うよ、この間ヴァチカン国土と話してる時に見せてもらった本に書いてあっただけさ。」
「ほう……。」
興味なさげに、清張は手近にあった冷めきった湯呑みを口に運ぼうとして、ぴくり、と緑茶の香りが届いたところで止めた。
「待て、[人間]にも世界に流れる[燃料]を吸い上げられるのか?」
「僕らは普段そんな事しないけどね。[人間]の血管には少なからず僕ら[シシャ]の[回路]とある程度同じ働きをが出来る事は証明されてるよ。」
僕も、とアルフレッドは読み終えた書類を元の清張の書斎机の上に戻すと、これまた冷めきった急須から緑茶を注いだ。
「なぜ。」
「[人間]は神の似姿だからある程度の互換性は見られるさ。[回路]の下位互換が血管みたいなもので。まあ僕らはいくら吸い上げても大丈夫だけどね。」
細い管を表すように、アルフレッドは自身の眼鏡の前で人差し指と親指をくっつけたものを横にスライドさせる。
「適正以上と言ったが、適正なんぞだれがどう判断した。そもそも、適正を知っている人間があるという事は[燃料]の存在を一定数知っている[人間]がいると?」
「うん。まあ彼らは[燃料]ではなくマナや気と言う言葉を使ってるみたいだけど。」
ぽかん、と頭を空っぽにした後、清張はうなじを掻きながら書面を眺める仕事に戻った。
下校時間になると、再び雪がちらちらと落ちてくる。袴姿の女学生達が終礼まで会話をしている間、久志は窓際の席でぼんやりと外を眺めていた。女学院らしく、冬でも美しく可憐な中庭を見下げながら、彼は周囲に注意を払った。
「聞きました? また昨日も陛下のお住まいの前で——」
「まあ、またそんな事がありましたの? 都市伝説ではなくて?」
往往にして渋い色の袴の裾を揺らしながら、両家の子女達は口元を押さえてなにやら噂話を重ねていた。昨今巷でよく耳にする、陛下のお住まいのご近所で、の言葉に、久志は、ふーん、と心中で呟いた。長くなってしまった茅色の睫毛の先を指先で弾きながら、手元にある夏目漱石の『こころ』を伏せる。
(噂話なんて聞いてない、とは言ったけど、改めて聞くとやっぱり……。)
それしか心当たりはなかった。皇居前に出現する数々の変質者の噂で持ち切りなのは、久志の通う女学校だけではない。
「まっ、先生がいらしたわよ!」
蜘蛛の子を散らすように、教師の靴音を聞いて女学生達は散り散りに自らの席へ駆けていく。ブーツのヒールの音も鳴らさずに、爪先で木板の上を滑る。
「全員、起立!」
一度座って、担任がガラリと引き戸を開けるとともに日直の女子が凛とした声で言い放った。噂話をする時の甲高い黄色い声とは大違いだった。
「礼!」
「ご機嫌よう。」
斜め三十度程度の礼。腰から頭まで針金を通したかのように、真っ直ぐに曲げる。手は上半身と連動して太腿の上へ、そして、頭を上げると共に横へ動かしていく。
「着席!」
椅子を引いて、左足を机と椅子の間に入れる。右足を左足の隣へ置くとともに、体も机と椅子の間に挟まる。椅子を引き寄せて、袴に触れる事なく着席する。
「よろしい、皆様ご機嫌よう。では終礼を始めましょう。」
明治らしい少し幅のある背広を整えて、担任は終礼を開始した。
革の学生鞄を置いて、いつものアイスクリームソーダを注文する。暖かい店内で冷たい物を飲むのは冬場の一種の道楽である。暫くして夏場の海を思わせる青々しいソーダが運ばれてきて、久志は薄紅色のマフラーを思い出したように解いた。焦げ茶色の新品の学生鞄の上に長めのマフラーを放ると共に、乾いたベルの音が聞こえた。入り口から最も離れた席に籠城していた久志は、テーブルごとの敷居を見越して店員と話す待ち人の姿を見とめた。待ち人もまた久志の顔を見ると、笑顔で手を振りながらやってくる。
「お疲れ様。」
「待ったか?」
史興は向かいに座ると、待ってましたとばかりにまずフードメニューを開く。冬に合わせて、グラタンやホットスープ、パイの種類が羅列されている。
「久志も食べるか?」
「……パイなら少しだけ貰おうかな。」
ミートパイとブラックコーヒーを注文して、史興は肩に被さっていた外套を外して生真面目に畳んだ。既に三時の菓子の時間も過ぎているが、史興は士官学校に行っているだけあって既に相当腹が減っているようだった。向かいに座る恋人の頭が動いていない事を察して、久志は何度も読んだ漱石を広げる。少し離れた場所に開かれた小説を一緒に読み耽っていると、ほんのりと旨味のあるしょっぱさが鼻に漂ってきた。
「ミートパイです。」
ナイフとフォーク、スプーンを並べられ、目の前に湯気でいっぱいの艶やかな狐色が置かれた。伝票を確認して去っていくと、史興はパイの表面にフォークを入れる。小気味よい、秋の乾いた落ち葉を踏みしだいた音だ。
「スプーン貸して。」
「ん。」
いつの間にか文庫を閉じて、咲口は皿の前でパクパクと手を動かす。銀色のスプーンが渡されると、小さめに砕かれたパイ生地とともに、具沢山のルーを掬う。巨大なマッシュルームのスライスがどっかりとスプーンの上で鎮座していた。
「ん、美味しい。」
「コクがあるな。」
パイの下にはハヤシルーと牛肉に占領されていた。申し訳程度にどでかいマッシュルームのスライスがところどころに見える。
「それも食べて夕食も食べられるの?」
「余裕だ。」
大口でフォークに刺さったパイと牛肉を早々に放り込む史興を見て、久志はふーんと呟いた。もう二口三口摘んで、久志は爽やかな味を求めて水滴の滴る紺碧のグラスを手に取った。
「久志。皇居の噂、聞いたか?」
「あぁ、やっぱり? 学院の女子もその話で持ちきりだよ。昨日も出たんだとか。」
ミートパイの残りはいつの間にか一割ほどにまで迫っていて、久志は少し呆れたように目を丸くした。当の史興はあまりそれを気にせずに、フォークを持っていた手で肘をついた。本来なら人差し指と中指の間に挟まれている煙草も、士官生という身分ではあまり堂々と持ち歩けてはいなかった。
「やはりあの周辺を捜索するべきかな。」
「取り敢えず、今日帰宅したら皆に報告が先だよ。」
清張の事だ、報告する前にきっともう調べ上げているの違いない。そう思いつつ、史興は最後の一口を頬張った。
「まあ、僕はそうだと思うけどね。」
窓の外でちらついていた雪はいつの間にかやんでいた。
「[核]が皇居にあると?」
「他に見当がつく?」
バニラアイスに乗った着色料満載のさくらんぼを突き落として、久志は伏せ目がちに外を見つめる。他に見当つかないというよりは、首都を再現した時点で他に相応しい場所がないのだ。
「確かに……な。」
[核]とは世界の心臓。例え政を行わなくとも、国事を仕切らなくとも、存在するだけで全てを維持する。明治期の日本人にとって、それと等しい存在は天皇以外、他にない。
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