Verse 4-8
窓にガムテープを貼って、ニコライ二世は出来るだけ音を立てないようにガラスを割った。急いでテープを剥がし、窓に開いた穴に腕を入れて鍵を外す。
(誰も来ないか。)
軽やかに武器庫らしき小さな部屋に転がり、ドアを開けた時死角になる物陰へ入って息を潜めた。見張りの足音も、話し声も一切しない。床に伏せてドアの隙間から向こう側を念入りに確認すると、ニコライ二世はドアノブを静かに回した。リーズの手紙に入っていた間取りは全て頭に中に叩き込んでおり、扉の先には案の定、吹き抜けの二階廊下に上がる階段と玄関口が見えた。
(おかしい……。)
階段に身を隠しながら、ニコライ二世は玄関扉の脇を三度程見た。兵士どころか人っ子一人立っていないのだ。リーズの報告では警備はそれなりに厚いと書いてあったはずが、拍子抜けするくらいに呼吸音さえ聞こえない。
(ソ連侵攻で出払っているのか?それとも私の耳が怠けただけで全員呑んだくれて眠っているだけか。)
暫く待っていると、ニコライ二世の頭にピョートル一世の重たい声が聞こえた。
(ニッキー。二人とも玄関口に到着。兵隊さんが倒れてるが、もしかして先に終わらせたか?)
(兵隊が倒れている?)
窓から外を見ても、見えるのは吹雪だけである。
(えぇ、二名倒れているわ。こんな吹雪で寝ているからもう凍死寸前ね。)
(裏口に回ってください!)
上から粉のような木屑が降ってくると、ニコライ二世は二人の頭の中に叫んだ。だれかが階段を降りてきている。このまま玄関から外に出れば、二人は丸見えであった。身を翻して階段の前に立ち、腰から引き抜いた拳銃でまず二発撃ち込む。しかし、上から聞こえた足音は一切乱れない。丈の長い黒い衣類の裾を視界に入れると、ニコライ二世は床を蹴って跳躍した。
(銃弾が効いていない?)
「ごきげんよう、陛下。」
木板が悉く木っ端微塵になる音とともに、下から無数の氷の針が突き出す。ニコライ二世は目を見開いたまま、針の一つを蹴って間一髪でその攻撃を避けた。咄嗟の判断で脚力を誤り、木製の玄関扉をぶち抜いて吹雪に体が投げ出される。
「ニッキー!」
太いピョートル一世の怒鳴り声が聞こえるとともに、地面に転がったニコライ二世の前にエカチェリーナ二世が仁王立ちになった。
「あの……声は——」
「ここになんの用か坊主。申してみよ!」
エカチェリーナ二世に脚の間から見えた黒い僧衣で、ニコライ二世は確信した。
「邪魔しに来たわけではありません。ただ故郷の土に会いに来ただけで。」
「今更……どの面を、下げてっ……!」
フードのように頭を覆って来た黄色いマフラーを外して、僧衣の男はその顔を三人に見せた。一目見れば誰も忘れられないほどの、強烈な青白い瞳が露わになる。
「本日いらっしゃるとは思ってもおりませんでした、陛下。このラスプーチン、貴方にだけはお会いしたくなかった。」
「私も、貴様なんぞに会う為にここまで来たのではない!」
立ち上がり、怒りに我を忘れてニコライ二世はリボルバーの引き金を引いた。エカチェリーナ二世の髪を掠めて、銃弾は確かにグリゴーリーに向かって発射された。
「おやめください、陛下!」
しかし、銃弾はグリゴーリーに当たる事はなかった。晴れた日の雪のような銀髪を靡かせながら女が一人、グリゴーリーの前に立ち塞がる。
「ラマーシュカ……。」
「な……ぜ。」
グリゴーリーの鼻に布の焼ける匂いが届く。ラマーシュカ・ドゥヴグラリアリョールの朱色の瞳は、痛みに揺れる事もなくニコライ二世を見据えた。国土を撃ったショックか、それとも自暴自棄になった自らへのショックか、ニコライ二世が発する事が出来たのは掠れた声だった。
「今日ばかりはお見逃しを……。あれをやったのは彼です。」
服の焦げた場所を全く気にせずに、グリゴーリーの前に立ちはだかったラマーシュカは、背後で凍死している二人の赤軍兵士を指差した。ピョートル一世とエカチェリーナ二世が、ニコライ二世がやったと思っていた二人である。
「ラスプーチン、お前なぜ——」
「私とて神に仕える身分。それ以上はなんともお答えできません。」
では、とラスプーチンは左胸に手を当てて会釈すると、そのまますぐに黒い靄となって消えていってしまった。
「陛下達が来るほんの少し前、ラスプーチンが来てこの屋敷を急襲しました。」
「そうか……。しかしどこから情報を。」
膝からがっくりと地に崩れ落ちたニコライ二世から目を逸らし、ピョートル一世はラマーシュカに近付いた。
「存じません……。ワタシも彼が来て、ない心臓が止まるかと。」
ラマーシュカはエカチェリーナ二世の肩越しに、ニコライ二世を見とめた。
「貴方を連れてロマノフ邸に帰るとリーズには言っておきましたが、どうしますか?」
「えぇ……、勿論。ですがその前に。」
ロングスカートの裾をつまみ、ざくざくと雪原を進むと、彼女はニコライ二世の前で両膝ついた。
「陛下、後悔先に立たず、です。陛下はなにも間違った事はなさってません。」
縋るような思いで、ニコライ二世はラマーシュカの顔を見上げた。
「ですから、一緒に帰りましょう。」
国土の微笑みにつられて、ニコライも不器用に口端を上げた。
そんなにショックかねぇ、とピョートル一世は呟いた。
「……なんです?」
エカチェリーナ二世の声を聞いて、ラマーシュカもまた車窓の景色から視界を変えた。
「いや、ラスプーチンと会って怒るのと、ラマーシュカを撃ってショックなのが、不思議だなーと。」
「貴方は鋼の精神ですもの。比べれば、ニッキーは一般人が曲げられる細い針金でしてよ。」
的確な意見で撃ち抜かれて、ピョートル一世は列車の窓に、ごつん、と頭をぶつけた。
「それと重ねて自慢の射撃が当たらなかったのも。」
ラマーシュカの隣で腕を組んで、ニコライ二世はすっかりと夢の世界へ旅立っていた。
「それよりも……。」
「ん?」
聞き返されて、ラマーシュカは首を振った。
「いいえ、なんでもありません。コーヒーを持ってきますね。」
エカチェリーナ二世に貸して貰った黒いコートを寄せながら、ラマーシュカは寂しげに微笑んで一等車両の一室を出た。
(それよりもずっと、家族のような者を撃ってしまった自分に。)
大きなショックを受けてしまったのかもしれない、とラマーシュカは心の中で続けた。
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