Verse 2-7
痛みの残る頭をもたげて、レイはゆっくりと瞼を上げた。両手首は上から吊るされ膝立ちに、制服のジャケットは脱がされてシャツは肌蹴ていた。
「漸くお目覚めだな。」
目の前に傲岸不遜に立っている金髪碧眼の青年をレイはゆっくりと見上げた。不敵な笑みを浮かべるジークフリートの手の中には、写真機が握られている。唇を開いたが、喉が擦れてレイの心中は音として発されなかった。
「さて、思う存分写真を撮らせてもらおうか。ついでに録音もしておいてあげるよ。いい声で啼いてくれよ?」
ジークフリートの後ろには、何名かの士官生が控えている。だれもが士官生らしく、屈強な身体を持っていた。レイは逃れようと両手首の紐を引っ張るが、ビクともしない。
「やれ。」
冷徹な、まるで死刑囚を銃殺する掛け声のような音が響いた。レイはその声を黙って聞き流すと、やがて迫ってきた士官生達を睨んだ。ギラつく黒曜石の瞳が長い前髪の中から透けて見える。まるで凍てついた自然の中で永遠と暮らす狼のようなその瞳に、士官生達は一瞬たじろいだ。
「なにをしてる。」
しかし、ジークフリートのほうが一枚上手であった。鞭打つようなその声に、士官生達はすぐに動き出す。レイの白いワイシャツが荒々しく破られ、上半身が露わになる。十代の未熟な身体であったが、レイの身体は非常に綺麗であった。傷一つなく、滑らかで、ある程度筋肉のついたその肢体は、男も女もどこか唆るものがあっただろう。まだ性に関してなにも知らなかったレイは、この時を境にして深い傷を受けた。
夜も更けてアルフレッドは漸く寮に戻る。部屋に入ると、カーテンは閉められていなかった。隣のベッドには荷物を置いた痕跡すらなかった。ベッドメイキングが入ってそのままの、気持ち悪い程に整頓された部屋で、アルフレッドは立ち尽くす。レイは昼に授業を終えていて、その後どこか歩いていたとしても既に就寝している時間であった。アルフレッドの物音で起きて違う部屋に入ったのであれば、部屋の電気は点いている筈だし、これ程綺麗なベッドも存在しないだろう。嫌な予感が彼の頭をよぎった。なにか、良くない事に巻き込まれたのではないだろうか。彼はバッグの中から手帳を取り出して、すぐに生活管理委員に電話をした。しかし、もう日付が変わっているこの時間に人が出るわけがないのである。アルフレッドは受話器を眺めた。そしてゆっくりと、震える手で、自分でもなにを考えているか分からなかったが、ダイヤルを回す。レイから聞いた部屋の電話番号。教員棟の再奥にある執務室の受話器を鳴らす番号であった。
突然受話器が飛び上がり、バスカヴィルはベッドから上体を起こす。
「はい、もしもし。」
眠たい目を擦りながら、バスカヴィルはいつもより少し遅い口調で電話に答える。受話器の向こうの人間は少し間をとった後に、その名を名乗った。
『あの、アルフレッドというのですが……。』
バスカヴィルの頭の中にはすぐさま、落ち着いた橙色の髪を持った眼鏡をかけた青年が思い浮かぶ。バスカヴィルは遠くに行きかけた意識を呼び戻して答えた。
「君、どうしてこの番号を知ってるのかな?」
『あの、レイが戻ってきてないんです。』
受話器を握る手に力が入った。バスカヴィルはその言葉で一瞬にして目が冴える。
『いつも僕より早く帰って寝ている筈なんですが……今日なんて昼に講義が終わったのに部屋に帰った痕跡がないんです。ベッドメイキングが入ったままで——』
荒々しく受話器が下された。バスカヴィルは震える手で受話器から手を離すと、急いで電話をかけ直した。ワンコールで出たのはロベルトである。
「ロベルト、私だ。至急私の部屋に来なさい、今すぐに!!」
思い切り受話器を台に叩きつけて、バスカヴィルはベッドから出て行った。髪を急いで束ね、彼は近くに放り出してあった軍服の袖に腕を通す。すぐに執務室の電気をつけると同時に、ロベルトがきっちりと軍服を着込んで入ってきた。
「どうかしましたか閣下。」
「レイが消息不明だ。」
両手首の縛りは消えたが、レイはぐったりとロッカーに背中を預けていた。荒々しく呼吸を繰り返し、すっかり快感を覚えた身体は立つ事をしようとしない。
「ハッ! 無様だな、元帥の息子ともあろう士官生が、青年共によってたかられるのはどんな気持ちだ?」
頭には既に靄がかかっていた。目の前で軽蔑の視線を注ぐジークフリートの顔も、最早認識できないほどに微睡んでいる。しかし、レイはその言葉だけは異様に冴え冴えとした意識をもってはっきりと言ったのだ。
「ジーク、後悔するぞ。」
立ち去ろうとしたジークフリートは、その言葉に一瞬だけ振り返った。酷い虚無感にかられ、ジークフリートは何事か口走りかけたが、ぐっと堪えて取り巻きとともにその場を足早に去っていく。レイは暗い更衣室に一人取り残された。どのくらいの時間が経ったのか、やがて荒々しい足音が聞こえてくる。順番にドアを開けていく音が聞こえ、漸くその部屋に入ってきたのは、赤褐色の髪の男であった。
「レイ!」
ロベルトはすぐにレイを抱き起こした。汗をかいてじとりと湿る肌に自らの軍服の上着を着せ、彼は割れ物でも扱うかのようにレイを抱える。
「大丈夫だ、もう大丈夫だぞ……。」
言い聞かせるようにしてロベルトはレイの頭を撫でる。更衣室に取り付けてあった簡素な電話を見つけ、受話器を取った。何度かベルが鳴った後、バスカヴィルが怒りを抑えた声で応える。
「レイを見つけました。すぐに医務室へ運びます。」
通話はすぐに切れた。ロベルトは、ふつふつと湧き上がる怒りを電話に叩きつける。床に落ちた受話器はひしゃげていた。
* * *
まず目に入ったのは白い天井である。ゆっくりと首を巡らせると、ベッドの脇で父親が本を読んでいた。しかし、ページは真ん中から一向に進んでいない。シェイクスピアのリア王、レイはなんとなしにその本の題名を眺めた。手を動かしてバスカヴィルに触れようとしたが、疲労度が高すぎて全く身体がいう事を聞かない。やがてロベルトが入ってきて、漸くバスカヴィルは我に返った。
「おはようレイ。大丈夫かい?」
レイが起きたのにもやっと気づいて、疲れた微笑みを浮かべながら息子を労わる。どうやら一睡もしていないようだった。目の下には薄くクマが出来ており、いつもの若々しい顔もすっかり老け込んでいるようである。
「目覚めて早々悪いんだけど、レイは首謀者を知ってるかな?」
目を見開いて、レイはロベルトを見た。ロベルトはなにも答えなかったが目を閉じるだけはする。いつもの優しい父の声であったが、その中には非常に冷たい、まるでいばらのような雰囲気を醸し出していた。
「しら……ないです。」
掠れた声でレイはそう呟く。バスカヴィルが本を閉じた音は医務室に反響する。浮かべた笑みは変わらないが、しっかりと顔に貼り付けられている。
「ほんとに、知らないです。」
「元帥、もう少し休息を取らせたほうがいいと中将閣下が。」
掠れた声でレイはそう呟く。バスカヴィルが本を閉じた音は医務室に反響する。浮かべた笑みは変わらないが、しっかりと顔に貼り付けられている。
「ほんとに、知らないです。」
「元帥、もう少し休息を取らせたほうがいいと中将閣下が。」
遮るようにしてロベルトはバスカヴィルが開きかけた口を閉ざした。恐らくこのままでは、レイが張本人を言うまでここに居座るつもりだろう。助け舟を出したロベルトに、レイは小さく頭を動かした。
「……ゆっくり休みなさい。」
冷たく言い放ったバスカヴィルは、椅子を蹴って立ち上がる。去り際に、ロベルトはレイの手を握って言った。
「また休んだら良くなる。お前も……元帥もな。」
講義の合間を見繕って、アルフレッド達は続々とやってきた。ただ、ヨハンだけは病室を訪れなかったが。
「ごめんねレイ。って言っても僕が未然になにか防ぐ事が出来たかというと微妙なんだけどさ。」
「っつーか誰だよマジ……、ほんと、俺レイが、もし死んだら、ここで、泣いてたわ。」
「もう泣いてんぞジャン。」
次々に見舞いの言葉や品を出す三人に、レイも流石にある程度元気を取り戻したようだ。すっかり笑えるようになったレイは、しんみりとしながらも活気を失わない友人達に深く感謝した。恐らく、これからも彼はこの友人達に感謝し続ける事になるだろう。
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