Verse 3-8
リチャード一世は、その名前を口にしたくなかったのかもしれない。零の説明を聞いた時、フィリップ二世の頭に駆け巡ったのはそれだった。
(アーサー王、ね。)
夕日を背に受けながら、フィリップ二世は洗浄した食器を棚に戻す。そろそろジャンも帰ってくる頃だった。夕食に取り掛からなければいけない。
「あー……。」
その前に、とソファーとソファーの間に置いてあるテーブルに歩み寄る、ラジオの隣に置かれた数枚の紙を見て、フィリップ二世は無線機を取り出した。浮かび上がったキーパッドを紙に書かれた数字の通りタップする。暫く呼び出し音が鳴り響くと、どこか聞き覚えのある声が聞こえた。
『はいもし。』
「えーっと……ソロモンさんのお宅ですか?」
緊張で強張った声と言葉遣いに、自分でもほとほと呆れる。質問に肯定で返されると、フィリップ二世は肩の緊張を解いた。
「零……に言われて、こっちで得た情報をそっちに流して欲しいって言われたんで、今ある分だけやろうかと。」
『あぁ、もう接触したのか。構わんぞ、許可を取る必要もなくいつでも送ってくるが良い。』
「アッハイ。ソウデスカ。」
短く別れの挨拶をして通信を切ると、フィリップ二世は小さな板状の電子機器で用意しておいた情報を纏めて送信する。
(はー、世の中便利になったもんだぜ。これ使ってんの俺達だけだが。)
リチャード一世とユーサー王が戻り、零の計画が始まるまでの間、ジャンはリーズから依頼を受けてスパイ業の片手間多くの通信機器を作っていた。フィリップ二世が使っている通信機や、板状の携帯端末もその成果である。
「……飯作りますか。」
作業が終わると、フィリップ二世は携帯端末をソファーに放り出して再びキッチンに立った。
物珍しい視線を受けながらホテルに帰投し、夕食をホテルで済ます。両親の隣の部屋でぼんやりとベッドに横たわっていた。ドイツに来る前にアルフレッドから速達で渡された携帯端末をいじると、零は長くため息をつく。
(ルプレヒト、どうするかな。)
既に入っていたテキスト会話の出来るアプリケーションを起動させると、零は薄ぼんやりと登録されている面子を確認する。ルプレヒトについて話せる人などジークフリートくらいなのだが、彼はまだ[人間]なのだ。万事休すとばかりに放り出すと腕で顔を覆う。暫く意識を失い、ドアを叩く音で目が覚めた。
「はい。」
「お客様がお待ちです。」
ドアを開けると、ホテルマンが良い角度で会釈をしながらそう告げた。
「名前は?」
「はい、ルプレヒト様です。」
訝しげに眉をひそめて、零は服の皺を伸ばしながら部屋を出る。案内されるがままにホールに降りると、ソファーに座るスーツ姿のルプレヒトがいた。ここでいい、と零が手で制すと、ホテルマンは再び会釈をして次の仕事へ取り掛かっていった。遠目にルプレヒトを三度確認して、辺りを見回しながら近付く。
「……。……夜勤は?忙しいんでしょ?」
フィリップ二世が見せた書類には、夜勤がかなり多い傾向、と書かれていた。まだ日が沈んで間もないこの時間、ルプレヒトは無論仕事のはずである。
「休んだ。」
「へぇ、仕事熱心じゃなかったか?」
これもフィリップ二世の情報である。最近のルプレヒトの動向を掴むのに、それ以外の情報は一つもなかった。
「……部屋は?」
「俺一人だけど。来るか?」
返答もなしに立ち上がり、零は部屋に連れて行く為に背を向けた。あまりの気不味さに口からなにかが出てきそうな勢いである。
蛇腹扉を開けて、部屋のある階を歩く。ルプレヒトは終始警戒心を突き立ててさりげなく辺りを注視している。
「ここだよ、俺の部屋。」
扉を開けて、まずルプレヒトを先に通した。リビングルームとベッドルームの二部屋にプラスして、そこそこ広いシャワールームがある。
「それで、俺にな——」
ドアをロックすると、ルプレヒトがなにかを握り潰しているのを見てしまった。口を金魚のようにパクパクしながらその姿を指差していると、ゴミ箱にクズを放り込んだルプレヒトが言った。
「悠樹はプロだがお前は素人だ。こういうのには気を付けろ。」
盗聴器だ、と続けざまに三つ程発見し、ルプレヒトは悉く破壊してはゴミ箱に突っ込んでいく。
「あ、ありがと……。」
「礼はいい。それで……今までの話が聞きたい。」
冷蔵庫から入れてすぐの生温いビールの瓶を取り出すと、零はグラスにそれを注いだ。
「今までの……。」
ルプレヒトの向かい側に座り、零はビール瓶とグラスを机に置いた。
「長いよ?」
「構わない。寝ても寝なくても俺達は同じだ。」
風がふわりとカーテンを揺らす。
* * *
日独親善行事が終わった数ヶ月後であった。さんさんと降り注ぐ日光から顔を庇い、ジャンとジークフリートは職場まで重い足取りで向かっていた。生暖かい風が身体を取り巻く中、二人は話す気力もなく無言である。
「……そういえばさ——」
フィリップ二世に、貰ってこい、と言われていたユダヤ人ゲットーの話を口にしようとして、ジャンはすぐに唇を閉じた。話し声も掻き消すくらいの大きな警報音が、周囲に響き渡る。
「空襲か!?」
「ち、地下壕! 地下鉄!」
ジークフリートは素早く空を確認すると、ジャンに腕を引っ張られて近くにある壕の下へ駆け出す。
「暫くベルリンには来てなかったのに!」
「いいから早く!」
地下壕にジャンを押しやり、ジークフリートは辺りを一瞬見回した。素早く通り過ぎる景色の中に、一つの人影が目に入る。若干長い栗毛を三つ編みにしている初老の男だ。
「ジークフリート! 早く!!」
「先に入ってろ!」
手首を掴もうとしたジャンの手をするりと抜けて、ジークフリートは初老の男の方へ全速力で走っていく。
「なにしてるんですか! 早くこっちに!!」
そう遠くない所から建物を無差別に破壊される轟音が聞こえてくる。ジークフリートは男の腕を掴んで、ジャンが案内した壕の方へ案内しようとする。
「……ジーク、フリート?」
必死のジークフリートの表情を瞳に映した途端、初老の男はそう呟いた。
「どうして、僕の名前を……。そんな事より! 早く!!」
「ジークフリート伏せて!!」
入り口から怒鳴ったジャンが慌てて戸を閉めるとともに、ジークフリートは一番頑丈そうな物陰に男を引っ張り込んだ。刹那、鼓膜を破るような爆発音と倒壊の轟音が二人を襲った。
暫く静寂が続いて、ジャンは漸く息苦しい地下から抜け出した。前線でないにも関わらず、煙やあらゆる物が焼けた匂いが鼻に入ってくる。
「……ジークフリート!」
辺りの瓦礫や人であった物には目もくれず、ジャンは最後にジークフリートがいた場所と、初老の男を連れて走っていた方向を目で追う。既に場所は瓦礫で埋まっていた。
(おい、大丈夫か?)
為す術もなく立ち竦むんでいると、脳内にフィリップ二世が語りかけてきた。
(大丈夫じゃない、ジークフリートが瓦礫に……。)
(あ?逃げ遅れたのか?)
ジャンは首を振った。
(違うんだ、男の人が一人逃げ遅れてて、その人も壕に入れようとしたら間に合わなかった。)
(あー……。)
かけてやる言葉も見つからず、フィリップ二世はそのまま押し黙った。地道に進める事を決意して、ジャンは増援が来るまで瓦礫を取り除いていようと地に膝をついた。鉄筋が剥き出しになったコンクリートに力を入れると、再び別の声が頭に響いてきた。
(ジャン、久し振り。突然で悪いんだけど、お前は職場に戻って大丈夫だ。)
ゆっくりと振り返ると、道を挟んで向かい側の歩道に、ぽつん、と細い影が立っていた。
(れ、零?帰ったんじゃないの?)
(残念ながらまだいるんだ。沢山話したい事があるんだけど、それはまた今度で。ジークは俺がなんとかするよ。)
ジャンを安心させるように、零は微笑んでみせる。表情が分からないほど遠くにいる筈なのに、ジャンにはそれが目の前で起きた事のように思えた。
(……分かった。零に頼む。)
脇に挟んでいた制帽を持って立ち上がると、ジャンは険しい顔で瓦礫の前を去った。
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