Verse 3-4
ある青年は、江戸に生まれた。なんの変哲もない家の、なんの変哲もない長男である。父親は訳ありだった。一族皆殺しにされた下士の、唯一生き残った一人息子。母親は訳ありだった。落ちて辻斬りと化した男に、強姦された商人の長女。それでも、青年は、なんの変哲もない家の、なんの変哲もない長男だった。なぜなら、両親が、そうであるように、と、必死の努力を積み重ねてきたからだ。
青年は、命がけで海を渡った。船内の倉庫に身を隠し、息を殺して役人が通り過ぎるのを何度も待った。そして、渡った先で沢山のものを見てきた。大王に仕え、女帝と話し、大帝と別れを交わした。なぜなら、長崎で聞いた話を、その目で確かめて死にたかったからだ。
青年は、江戸に没した。なんの変哲もない家の、なんの変哲もない長男だった。なぜなら、歴史は彼の名前を一度たりとも語る事はなかったからだ。
青年の名は、悠樹零といった。
* * *
まず瞼に感じたのは、冬のささやかな陽だまり。次に、台所から朝食を作る音が聞こえてきた。味噌の香りが部屋にかすかに漂ってくる。そして布団の暖かさに、青年はゆっくりと目を開けた。
「……。」
声を出そうとしたが、別段出しても意味はなかった。青年はゆっくりと起き上がり、辺りを見回す。勝手知ったる寝室だ。
「あー、うん。」
取り敢えず発声の確認はしておこうと、青年はそう言葉を発した。起きるのをずっと待っていたのか、布団の上で座っている黒猫が、その言葉に答えるように一つ鳴く。
「よしよし、いい子いい子。」
そういいながら猫を下ろして、青年はゆっくりと立ち上がった。上体を何度か捻り、冷たい空気を浴びようと障子を開けた。一面冬模様の巨大な日本庭園が目に入る。
(特に変わりなし、か。)
体を冷え切らせると、再び障子を勢いよく閉めて、今度は板張りの細い廊下へ出た。廊下の向かい側から漂う朝食の香りに惹かれて、青年は少々危なっかしい足取りで和式の厨房に顔を出した。
「……。」
釜戸の前でパタパタと団扇を扇ぐ和装の女性の背中を見て、青年は柱にもたれかかった。その状態がいくばくか続き、青年は辛抱たまらず咳払いをする。
「その格好で朝食を食べるつもりかい? 早く着替えてらっしゃい。」
「はい……。」
気付いてたんなら、とボソボソ文句を言いながら、青年は台所を後にした。部屋に戻り、箪笥に仕舞い込んである袴にとりあえず着替える。暫く寝室でぼんやりと佇んで、青年は廊下に出た。
「それでは、悠樹のお父様もお母様も全て記憶が戻った、という判断でよろしいでしょうか?」
「構わん。」
男女の会話が聞こえて、青年は首を横に回した。理恵と悠樹が何事が話し込んでいた。
「あー……。」
気配を察されて、二人の視線が青年に集まる。視線を漂わせる青年に、悠樹は尋ねた。
「体は。」
「取り敢えずは、今はなんとも。」
少し思案げに眉をひそめると、そうか、とだけ言って悠樹は壁を隔てて隣の部屋に消えていった。
屋敷に付属する茶室と道場を往復して本邸に戻ると、朝食が出来ていたようで、青年は名前を呼ばれた。
「零、朝餉が出来たから早く来なさいな。」
和装の女性に手をこまねかれ、零と無言でついてくる理恵は小走りで板張りの廊下を移動した。静かな朝食が始まり、零もまた出来立ての味噌汁や炊きたての白米を頬張る。
「零、今までの事は特に深くは問わん。」
食事を終えて箸を箸置きに置くと、悠樹は顔を上げる。湯気を立てる白米の茶碗を持ったまま、零も悠樹の顔を見た。
「だが、一つだけ答えて欲しい。お前の目的は何だ?」
残っていた白米を飲み込み、零もまた茶碗と箸を置いた。
「はい、詳しい事は後に説明します。当面の目標は第二次世界大戦をいかに縮小して終わらせるか、です。」
受話器がけたたましくベルを鳴らし、洋館の一室にいたアルフレッドはぶつくさと苦言を呈しながら受話器を取った。
「もしもし。」
書類仕事を邪魔されてむすっとした声で返事を返すと、アルフレッドにとって意外な人物の声が受話器を通って来た。
『悠樹だ。話がある。』
「……どうしてここの電話を?」
居候しているニコライ二世が扉を開けるのを見て、アルフレッドは、すぐに扉を閉めろ、とジェスチャーをした。
『理恵から聞いた。電話を代わるぞ、切るなよ。』
仏頂面に相応しい無感情な声が切れると、次に聞こえたのは、聞き間違える事など決してない、アルフレッドの命の恩人の声だった。
『あ、もしもし。アルフレッド? 俺だよ、零なんだけど。これからドイツに渡ろうと思うんだ。もう手配は目処がついてる。だから、リチャードとニコライに伝えて欲しいんだけど……。アル? 大丈夫か? 電話だと口下手だったりした? 直接会ったほうが良かったかな……。』
喉を焼くようななにかを飲み込んで、アルフレッドは鼻を啜った。
* * *
アルフレッドからニコライ二世へ、ニコライ二世からフィリップ二世へ、そして、フィリップ二世からリチャード一世へ。零についての情報は、伝言ゲームのように次々と多くの人の耳に伝わった。
「っつー事らしいが、俺ら何かやるの?」
人目を憚ってニコライ二世の住む第十セフィラの邸宅に滞在していたリチャード一世は、人を集めた。ジャン、ニコライ二世、フィリップ二世、アルフレッドである。
「あぁ。零がなにを考えているのかは分かっている。分かっているが、まずお前とジャンには話すべき事がある。」
フィリップ二世から聞いた情報、零が日本にいる事をもう一度確認して、リチャード一世はそう言った。
「あぁ? 騙してたとか?」
「騙してたのうちには入る。お前達に隠していた事だ。」
上体を前屈みに、リチャード一世は指を組んだ。ジャンとフィリップ二世はお互い顔を見合わせて、目をしばたかせた。
「レイの正体についてお前達は聞いてないだろう。」
心当たりのなさそうな二人に呆れたため息をつき、リチャード一世は頭を横に振った。
「あっそういえば。」
「流されかけてたわ。で、誰なんだ?」
体をクッションに預けて、リチャード一世は尊大に腕をソファーの背もたれの上に乗せた。
「ああ、彼はとある者に肉体を乗っ取られていた。外見は零でも、中身は零ではない。」
続きを待っていた二人に僅かな沈黙が走った。
「……んで? そのとある者の詳細は?」
「知らん。」
口に運んでいた紅茶で思わずむせて、ジャンは体をくの字に折った。今度はフィリップ二世が呆れる番であった。
「知らん、てお前ぇ……。それだけの情報で正体教えてやるなんてよく言えたもんだな。」
「零しか知らん。だが事前に情報を持っていて損はなかろう。」
そうだな、と呟いてフィリップ二世は眉間の皺を解く。どうやら零に会うまでは、それ以上の情報を期待出来ないようだ。
「お前達にはやって欲しい事がある。零と接触し、零の目的を完遂する為に協力してくれ。」
隣にいたニコライから書類を受け取り、リチャードは上から下へ目を走らせた。
「接触っつってもなぁ。俺らが日本に行ったら流石にやばいんじゃねぇの? ご時世上。」
「あぁ。」
シャンデリアを映し出す机の上に、一枚の書類が置かれた。
「だから彼がドイツに来る。」
書類のタイトルは、一九四一年について、計画と詳細。目的は、ルプレヒト・ヴァルツァーとの接触であった。
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