Verse 3-3
一歩竹林に足を踏み入れると、地面を覆う枯葉が、ざくっ、と音を立てる。ケープの前を合わせながら、レイは後ろを振り向いた。
「何か感じるか?」
「いえ。」
ガウェインも続いて竹林に入り、辺りを見回した。
「陛下は、何か感じてらっしゃるのですか?」
「更に薄ら寒い。」
言葉少なにそう告げて、竹林の中を進み始める。濃紺の夜空は竹に埋め尽くされて垣間見る事も出来ない。暫く歩くと、最早どこを歩いているのか分からない程には深い場所に来た。聞こえるのは、枯葉を踏みしめる足音と、時折動かす竹の葉の音だけだ。
(風も吹かないとは、どんな魔境だ。)
辺りを見回して、また再び足を踏み出した時、ガウェインが進行先に待ったをかけた。
「お待ちを。何者かいます。」
剣の柄に指をかけ、ガウェインは腰を屈めた。
「地図と私達の歩みが合っているなら、探している穴とやらはこの近くなんだが——」
地図から顔を上げた途端、声にもなっていない咆哮のようなものが二人の身を凍らせた。
「なんだこの、声は。」
レイの呟きに答えるように、竹藪の中からそれは姿を現した。黒々としたなにか。本能的に夢で追ってきた物だと理解するのと、その凄まじい速さの黒い渦巻きがレイを取り込むのは同時だった。
「陛下!」
「邪魔よ。」
剣を抜き放ち黒い渦に振り下ろし始めたと同時に、その刃は弾かれてガウェインはよろめいた。
「貴様、見殺しにするつもりか!?」
「見殺し? えぇそうね、殺せるなら殺すわ。」
黒い渦の向こうから出てきた女子は、その手に持つ薙刀を一閃して竹を一掃した。冷徹な一言に、ガウェインは目を見開く。息を飲み、正気かどうか女子の顔を伺った。
「驚いた? でも、私達は待ち続けたの。」
女子は薙刀を構えて、ガウェインを見据える。
「だから殺すわ。あの体の中にいる、アーサー王という男を!」
地べたに叩きつけられ、レイは呻いた。激しく殴打した肩を抱えながらよろめく。
「あーあ、酷い有様やなぁ。体は大事に言うたんやけど、あんま効果ないんかな? やっぱ。」
頭上から声がして、レイは上を見上げた。しなる竹の上に飄々と立つ男が、レイを見下ろしていた。
「お前は、確か——」
「せやな、坂本隼人です〜。」
しかし、彼が纏っているのは陸軍の軍服ではなく、月光りに淡く反射する白い狩衣だ。
「なら、なんだその服装は……。」
穏やかに煙管を吸って煙を吐くと、男は張りついたような笑みを更に酷くした。
「何やと思う?」
口に咥えた煙管から手を離すや否や、鞘に入った刀身を抜き放ってくるりと宙で一回転する。
「なんやぁ、そう驚かれると可哀想に見えてくるなぁ。ま、後で説明する時間はたんまりあるさかい。」
一瞬にして近付いてきた狐目に、レイは瞠目した。逃げようと上げた腰はすっかり引け、一歩もその場から動けない。
「今言うのはこれだけや。悪い事はしたらあかんのやで。」
低く、静かに、そして子供を諭すように言った彼の言葉は、刀とともに深々とレイの胸に刺さった。
「[神]様がちゃあんと、全部見てるさかいな。」
狩衣姿の男が柄から手を離すと、いつの間にか背後にあった深い穴に、レイの体は落ちていった。それを追うように、再び黒い渦が竹藪の中から暴風を伴ってやってくる。
「待った。」
男の一言で、ピタリ、と渦が動きをやめた。渦は大鯰のようにうねりを伴って、頭ともつかない丸い場所で男の顔を覗く。
「体まで食ろうたらあかんで。わいとの約束や。」
男から見れば、その次に渦が見せたその頷くような大きな縦振りは、まるで言いつけを聞いた後の無邪気な子供の頷きのように見えた。
底はないのではないか、と思うくらい深く落ち続けている。レイの頭にはなんの考えも浮かばず、体の怠さは落ちるごとに増していった。見渡す限りの黒。見えていた筈の竹藪と僅かな夜空は、最早点でさえなかった。漸く、彼の体に変化が起きた。ぶわり、と風が下から巻き起こると、彼は宙に浮いたまま体勢を整える事が出来た。
(何だ……?)
次に、レイの耳には子供達の声が聞こえた。どこにも子供の姿は見えないが、多くの駆け足と笑い声が聞こえた。真っ暗闇の中、レイにとっては不気味で仕方がない。
「い、一体どこに——」
光を求めて、最早見えない夜空を見上げる為に顔を上げた。今にも泣きそうな表情だった。しかし、そこにあったのは先程の黒い渦の巨大な頭だ。渦の中心は、まるで台風の目のようにぱっくりと大きく円を開けていた。レイは息を飲んだ。絶望だけが心と体をどんどんと埋め尽くしていく。どこにも逃げ隠れできず、敵前に心臓を晒け出している気分であった。渦はまるで、親鳥からの餌を待つ小鳥のように永遠と口を開けている。そして、一瞬の出来事であった。無邪気な食前の挨拶がレイの耳には聞こえた気がする。その渦がレイを飲み込むのに、さして時間はかからなかった。
* * *
目を開けば、そこは黒かった。青年はその視界を知っていた。むしろ、慣れ親しんだ程近しいものだった。
「体は食っちゃいけないって言われなかったのか?」
若干咎めるような、呆れの混じった声に、子供達の声が返答した。いくつもの小さな、ごめんなさい、が、青年の耳に届く。
「分かってるならいいんだ。早く穴の上に吐き出してくれ。」
次に聞こえた無数の、分かった、がやむと、一つ少女の声が聞いてきた。残り物は食べていいか、と。
「……いや、上の人間に返してやれ。」
少し躊躇いがちに、青年はそう呟いた。
最早虫も泣かぬ冬の寒空の下、青年の体が落ち葉の上にあった。
「生きとん? それ。」
疑わしそうに首を傾げる狩衣姿の男を傍目に、女子は黒いセーラー服のプリーツスカートをふわりと揺らしながらしゃがんだ。
「えぇ、生きてるわ。穴の中で起きてたみたいだけど、体力が足らなかったかしら。……逸叡様、お手数おかけしたわ。」
腰に佩いた唐太刀を撫でていた逸叡は、頭の位置を戻した。
「なんやぁ簡単やったから、別に手間も世話もかかっとらんで。」
細く煙を吐き出して、逸叡は再び尋ねた。
「それどうすん? 理恵はんが運ぶには図体がでかいんとちゃいます?」
「あら、これくらい簡単よ。昔も運んだもの。」
青年の体を、そのしなやかな体とは全く正反対の力でひょいと持ち上げた。
逸叡と別れて、理恵は竹林から外に出た。ぐるりと敷地の外を回って、とある一つの日本家屋の前に立つ。
「夜更けにごめんくださーい。」
普段とは打って変わって、か弱い女子の声で屋敷の中に声をかける。暫くして、お待ちを、という朗らかな声が聞こえてきた。
「だれだ。」
返答してきた女性ではなかった。ガラリ、と玄関の引き戸が開くと、理恵のよく知る顔が出てくる。初老の男は鉄面皮を引っさげて、その額には大きな切り傷が残っている。
「お届け物にきました。悠樹のお父様。」
理恵の声は、明るくなった。両手に抱く青年を差し出し、心の底からにこりと微笑む。悠樹はただただ瞠目した。見知らぬ女子が目の前で、抱きかかえた青年を差し出した事に、では決してなかった。
「お前は……。」
言葉が喉まで出かかったが、それより前に熱いものが込み上げて堪らなかった。なぜ忘れていたのか、その言葉だけが、どうしても出せなかった。
* * *
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