Verse 3-1
青白い月光に、赤いワインの水面が反射する。
「何? 逸叡にやれと?」
「えぇ。貴方の情報はもうあちらに回ってしまったから、悟られたら警戒されるわ。」
長々と深いため息をついて、グリゴーリーは窓辺で煙管をいじる男に目をやった。きっちりと髪を七三に分けた狩衣姿の男が煙を吐いている。
「なんやぁ。戻ってきてすぐに仕事っちゅうんは嫌やなぁ。」
入り混じった関西の方言でそう言いながら、彼は顔を二人の方向へ向けた。
「そう言う割には、随分と乗り気の顔ね。」
「いつもこの顔や。」
理恵は注がれたワインを飲み干すと、グリゴーリーの脳天にそれを乗せた。
「否定しないのかしら。それじゃあお頼み申すわ。」
「私は大道芸師ではないぞ。」
グラスを取り払って、グリゴーリーは渋い顔をしながら理恵の姿を見送った。
* * *
ユーサー王が[天使]に復帰すると、彼の今までの予想とは全く正反対の、[天使]達の歓迎が天界で沸き立った。ジャックとロビンはユーサー王とともに神殿へ戻り、[死神]に身をやつしていたジャックは[全能神]に復帰する事となった。
「成る程、レイは日本に残ると?」
ジャックの執務室で、コーヒーを飲みながらソロモン王は尋ねた。
「あぁ。建前はその、[堕天使]がまた出てくる可能性、だけど。多分リチャードとジャンがまだヨーロッパに居座ってるのが原因じゃないか?」
あり得るな、と再びコーヒーを口元に運んでいたソロモン王は、二度ほど足を動かす。
「話は変わるが、実は別にやってもやらなくてもいい依頼を受けている。一緒にどうだ?」
「やってもやらなくてもいい依頼? やらなくて良くないか。」
食い入るように前のめりになるジャックに、ソロモン王は、しめた、と言う顔で笑う。
「なに、一民族大移動、出ドイツだ。」
持っていた書類の束の中から、ソロモン王は一枚の紙を取り出した。立ち上がりながら書類を受け取り、ジャックは口をへの字に曲げる。
「どうだ?」
そう促されて、ジャックは長々とため息をついた。
* * *
時は過ぎて、一九四〇年の末。ナチス・ドイツは破竹の勢いでヨーロッパの大地を駆け、大日本帝国は中国を尻目に着々と大東亜共栄圏獲得への準備を進めていた。
* * *
磨かれた大理石がシャンデリアの灯りで照っている。ソファーに座って、リチャード一世はうつらうつらとギターを奏でていた。半ば目を伏せながら手を動かしていると、前から、ドスッ、という音が聞こえてきた。
「話がある。」
いつものテンションが高い声とは裏腹に、随分と低く神妙な声であった。視線をギターから上げると、机を挟んで向かいのソファーにフィリップ二世が座っていた。
「……。」
無言で返答をしながら、リチャード一世はギターを隣に座らせる。組んでいた脚の膝を両手で抱えて、目の前にある冷め切った紅茶を口に運んだ。
「あー、えーっとな……。取り敢えず、フィリップ二世の頃の記憶は取り戻したんだ。うん。」
誤魔化すように、前のめりになっていた上体をふかふかの豪奢なクッションに預けて、そのタッセルをいじる。ちらりとリチャード一世の方を見ると、彼の翡翠色の瞳はじっとフィリップ二世を見つめていた。
「えーあー……。もしかして、もしかしてだけどよ。お前が消えたのは、ロベ、じゃないルプレヒトのせいじゃ、なかったり?」
顔色を伺うように瞳だけを上に上げると、リチャード一世は冷えた紅茶を飲み干して温かい紅茶を注いでいるところであった。
「おい! お前話聞けよな!」
「聞いているが?」
ティーポットの注ぎ口から目を離し、胡乱げな顔でリチャード一世はまくし立てるフィリップ二世を見上げた。
「お、おう。悪りぃな。」
ごとん、とポットを机に置くと、リチャード一世は目を細めてスプーンの先の銀細工を見つめる。
「……偽物の帝國はどうだった。」
「はぁ?」
聞いている、と言われてすぐに話の腰を折られて、フィリップ二世は思わず阿呆のような声を上げた。
「行ったのだろうが。話は聞いている。何があった?」
「え、あぁ。えーっと、俺の記憶が戻ったのはそこだ。なんか日焼け気味の青年に助けられて、あと[人間]が四人いたのと、セーラー服の女がいたのと——」
指折り記憶を思い出しながら事柄をつらつらと述べたてて、フィリップ二世は言葉を切った。そして、ワントーン低い声で再び口を開いた。
「レイに殺されかけた。」
ほんの一瞬だけ、リチャード一世の手の動きが止まった。すぐに、ぐい、と紅茶を飲み干すと、乱暴にソーサーごと机に置いた。
「私がまだここにいるのは。やりたい事が……いや、やらなければいけない事があるからだ。」
「へぇ? で、そのやらなきゃいけない事ってなんだ?」
一つ咳払いをすると、リチャード一世は周囲をざっと見回す。
「……私の、古い友人を取り戻す事だ。」
「古い友人? 俺より?」
怪訝そうに眉をひそめたフィリップ二世に、リチャード一世は頭を振った。
「いや、お前よりは遥かに新しい。この世界に来て、一番最初に会った。」
ふーん、と、リチャード一世が新しく入れた紅茶を受け取り、フィリップ二世はティーカップに口をつけた。
「その友人は、青年は日本人で——」
そうリチャード一世が青年について語り出した時、考えるより前にフィリップ二世の視線と姿勢が自然と正された。
「名を零と言った。」
息を呑む澄んだ音が、玄関ホールに響き渡った。
* * *
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