Verse 2-13
昼食の時間、ジークフリートの呼び声をくぐり抜けて、ジャンは職場をこっそりと抜け出した。事前にフィリップ二世から聞いていた職場に足を踏み入れると、昼の時間で殆ど人はいなかった。頭を下げる秘密警察達を余所に、ジャンは目が合った青年に手を振った。
「あ……。」
慌てて手に持っていた書類を片付けると、ヨハンは立ち上がってジャンの下に駆け寄ってくる。
「もしかして、兄さんに何か用ですか?」
「あっ、いや違うんだ。ヨハンとお昼ご飯食べたいなって。外で……。」
美味しいカフェがあるんだ、と親指で外を示すと、ヨハンは顔を輝かせて頷いた。
ニコライ二世からの差し入れの金平糖を頬張りながら、つい先日の屋上で待機していると、ジャンとヨハンが仲良さげに外に出てきた。内心、よくやった、とガッツポーズをしながら、フィリップ二世は立ち上がる。ニコライ二世は既に、行く先のカフェの近くで二人を待っていた。
『こちらリーズ。ルプレヒトさんはまだ気付いてないみたいです。』
「おっしその調子だ。二人が出てきたから俺は動くぜ、ここは頼んだ。」
耳に下がるイヤリング型無線機から聞こえたリーズの声にそう返し、フィリップ二世は二人のゆったりとした歩みに合わせて屋上から屋根へ飛び移って行く。
『それにしてもジャンさんは本当に、人と仲良くなるのが早いですね。』
「あいつがいいと思った人間には、な。だれとでもじゃねぇだろ、ジークフリートの事考えるとよ。」
実際、ROZENの士官学校でもフィリップ二世との仲は劣悪だった。
「ま、だれとでもぽんぽこ仲良くなるんじゃないからいいけどよ。」
『あぁ、ボクの知り合いにそういう人いました。面倒じゃないですけど、危なっかしさは倍増しますね。』
若干遠い目をした声に、フィリップ二世は鼻で笑う。
「そーいやよリーズ。ルプレヒトの野郎と面識あるのか?」
ジャンとヨハンを目と足で追いながら、フィリップ二世は会話を続けた。
『えぇ、ありますよ。ただ、面識があるくらいで浅い関係ですが。』
「へぇ、あいつはどマイナーな偉人?」
二人が角を曲がると、フィリップ二世は慌てて近くの電線の上を綱渡りし始めた。地上から見上げられるリスクがあったが、フィリップ二世の足の速さが常人の目に捉えられる事はまずない。
『どマイナーと言いますか、最早マイナーとも言えないほど名もない男ですよ。』
くすくすと微笑むリーズはどこか楽しそうである。どうやら、深い関係ではなくとも思い出はそれなりにあるらしい。
「おっとカフェだ。暫く応答しねぇぞ。」
人通りの多い道路の向こう側に、ジャンが足繁く通うカフェの名前がガラス張りの窓から見えた。無線機の向こうのノイズ音は相変わらず聞こえたままであるが、フィリップ二世は万が一に備えてそのままカフェの近くにいるニコライ二世と合流した。
「第一関門突破だな。」
「順調。」
壁に寄りかかるとともに、無線機にカフェの中の様々な話し声が聞こえ始めた。ジャンが無線機のスイッチをオンにしたのである。
「いやーしかし、[シシャ]は随分楽だな。言語はだれにでも通じるし、変装しようと思えば一瞬で服装を変えられる。自分が強く意識するだけでなんでもできるってな便利だ。」
胸ポケットからシガレットを取り出して、ジッポで火をつけるとフィリップ二世は一息ついた。
「ジャンはできない。」
フィリップ二世の軽快な声とは裏腹に、ニコライ二世の声には暗い影が含まれていた。煙を一気に吐き出すと、フィリップ二世は口を閉じた。暫くジャンとヨハンの他愛ない会話が続けられている。
「……フィリップは。」
料理が届いた頃に、ニコライ二世は呟いた。
「あ?」
「フィリップは、どうやって記憶を?」
返答するのに、フィリップ二世は数分を要した。のらりくらりとかわすか、それとも真実を語るか。ゆるく瞼を閉じると、昨日のようにあの青年の声が聞こえる。彼の記憶力をもってすれば、たかが十数分見ただけの青年の姿も鮮明に脳裏に思い描けた。しかし、それ以上に、青年に関わった事象はビビットカラーのように強烈に焼きついている。
「また会える、か。」
電線の中に垣間見える青空を見上げ、フィリップ二世は青年の約束を繰り返した。口からたゆたう紫煙が空へ昇る。
「……。」
シガレットを水溜まりに投げ捨てて、フィリップ二世はニコライ二世と時を同じくして物陰からカフェの入り口に身を躍り出た。
『まずい! ルプレヒトさんがいないです!』
小声で、しかし怒鳴るような報告が無線機越しに聞こえた。フィリップ二世は舌打ちして周囲を見回す。
「あいつが来るまでの時間は——」
「いや、ない。」
先回りしてルプレヒトを足止めしようと考えたフィリップ二世の考えを打ち砕くや否や、カフェの店内から身を刺すような殺気が溢れかえった。
「フィリップ、窓を割れ! 損害賠償は発生しない!」
ニコライ二世が言い終わる前に、フィリップ二世は踵を返して全面ガラス張りの窓を突き破った。中に人は一人もいない。窓の外にあった先程までフィリップ二世達がいた景色も、最早黒いなにかに覆われて見えなくなっている。
「どうなってんだこりゃ。」
「結界。この中の破壊行為は現実世界に影響される事はない。」
太もものベルトに挟んであったナイフを抜くと、ニコライ二世は真っ直ぐ前を見据えた。
「若干遅かったか。」
視線の先にはルプレヒトが立っている。その数メートル向こうに、ジャンが壁に思い切り叩きつけられて尻餅をついていた。ヨハンはルプレヒトの片手に抱きかかえられている。
「どうやって来たんだこいつ、リーズの報告から一瞬だったぞ!」
ジャンの前に立ちはだかり、フィリップ二世はナイフを構えた。
「突然、ヨハンの……影からっ!」
「影だぁ?……あー、成る程な。」
構えた手の隙間から見えたルプレヒトの影を見て、フィリップ二世は納得する。そこから伸びる一本のひも状のなにかは、ルプレヒトの手の中に収まっている。
「あんたの鞭は随分と伸び縮みするもんだと思ってたんだが、自分の影を使ってたわけだ。どうする?残念ながら今の俺はROZENの時みたいに一筋縄じゃいかないぜ?」
フィリップ二世の挑発にルプレヒトは乗らなかった。隻眼の眼光がフィリップ二世をひと睨みする。たかが一つであったが、ルプレヒトのその鋭さでは一つで十分だった。
「おいジャン、こいつ前隻眼だったか?」
「えっと、いや……。」
漸く頭を振りながら立ち上がって、ジャンは被りを振った。手にはサーベルが握られているが、彼の獲物としては役不足である。フィリップは手から一瞬にして真っ青な槍を出し、ルプレヒトはそれと同時に地を蹴った。
「そ、それ俺が使ってたロンギヌスじゃ!」
鞭の一閃を上半身を屈める事で避ける。フィリップ二世の黒い髪の先が鞭を掠ったが、彼の神経が乱れる事はない。
「お前も[シシャ]だったか。」
「あ?文句あるかよ。」
戻りの一閃を腕に巻きつける事でルプレヒトの動きを封じる。
「ジャン!」
かがめた背中に、ずん、とジャンの体重がかかる。攻撃を弾き飛ばした反動でフィリップから放られた槍を受け取ると、それを振りかぶり穂先でルプレヒトの首筋を横切る。
「くそっ……!」
穂先が届く前にルプレヒトが鞭を手離して後退するほうが先であった。ジャンがフィリップ二世の目の前に降り立つと同時に、ルプレヒトが腰からリボルバーを引き抜く。
「避けろ!!」
銃弾は凄まじい速さでジャンの右肩を撃ち抜いた。降り立ってすぐのジャンは衝撃に耐えきれずにフィリップ二世へ倒れ込む。
「避けろっつったろーが! 血は……俺らは血液ないんだったな……。」
銃弾はジャンの肩にめり込んでいたが、黒いジャケットには染み一つついていなかった。
「おい。おい、聞こえてんのかお前。」
目を丸くしたまま焦点の合わない目で天井を見つめるジャンに、フィリップ二世は手を振った。横をニコライ二世が目にも留まらぬ速さで駆けていったが、巻き起こった風にジャンはビクともしない。
「思い……出した。」
ジャンはゆっくりと自らの右肩に触れる。脳を突くような金属の痛みを、ジャンはしっかりと覚えていた。石造りの砦に登ろうとして、イングランド兵の放った矢に肩を撃ち抜かれたあの痛みであり、リチャードが人間界でヨハンとして動く事を決めた時に与えられた痛みでもあった。
「あ?なんだって?」
「っ……!」
右肩の深くに指を突っ込んで、無理矢理に鉛玉を引き抜いたかと思いきや、その手からは赤い光が溢れていた。。ジャンは跳ね起きてもう一度槍を構える。ナイフでルプレヒトの動きを止めていたニコライ二世の背に、彼は静かに呼びかけた。
「ごめん、ニッキー。俺がやるよ。」
真っ青な柄に額を当てると、どこからともなく流れてきたそよ風がジャンの髪をなびかせた。今まで来ていた軍服は金色に染まり、やがてその形を変えて踵まで伸びる真っ青なチュニックに変わった。手は白銀の籠手に覆われ、ジャンはゆっくりと真っ青な瞳をルプレヒトに向けた。
「俺は別に、貴方が憎いわけじゃない。でも、俺はヨハンを、リチャードを救う為にここまで来たんだ。」
ルプレヒトのダガーを弾き飛ばして、ニコライ二世はフィリップ二世の後ろに飛びすさる。途端に、ジャンの前は金色で埋め尽くされた。呻きながらニコライ二世とフィリップ二世は腕を掲げて眼前を覆った。
瞼の向こうに温かな光を感じた。ヨハンはゆっくりと瞳を開ける。まるで湯船に全身が浸かっているような感覚であった。
(あぁ——)
鎧の擦れる音がして、ヨハンは、リチャード一世は、その美しさに言葉を失った。黄金の輝きの中にただ一人、百合の紋章が刺繍された青き衣をまとって立つ彼の姿は、紛う事なき多くの兵を率いた戦乙女の姿である。
「ジャン……。」
横顔を見せていた乙女は、呼びかけに応えてそちらを見た。ゆっくりと手を差し出して、聖女は微笑む。
「お帰り、リチャード。」
その手の上には、赤く輝くポピーの花が揺れていた。
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