Verse 2-12
身動きしやすいように、いつものふくらはぎまである白衣は着ていなかった。ライムグリーンのネクタイにクリーム色のワイシャツ、深い緑の毛糸ベストという、いかにもお客である体を醸し出しながら、アルフレッドは坂本の自室から壁を隔てた廊下に立っていた。くぐもった話し声とともに数人の足音が扉の向こうに消えていく。
(知り合いに会いませんように、知り合いに会いませんように……。)
心で静かに願いながら、アルフレッドは廊下と廊下を繋ぐ広めの空間に素早く躍り出る。ゆっくりと機を伺いながら坂本の私室の前まで、さも迷ってしまったかのように辺りを見渡しながら歩いていく。扉に背を向けて刹那、廊下に誰一人として視線を向けなかった数秒のうちに、アルフレッドは身を翻して自室に入った。
「行け。」
自室に入ってすぐに、グリゴーリーの落ち着いた声が聞こえた。
「な、なんや!?」
「失礼するよ!」
ソファーのすぐ傍に立っていた坂本の鳩尾を殴りつけて気絶させると、アルフレッドは瞬時に結界を張って戦闘態勢をとる。
「ほう、ここで決着をつけようというわけか。」
床に倒れこんだ坂本をちらりと見やって、グリゴーリーは右手を挙げる。彼の背後から、黒い靄がユーサー王の姿に姿を変える。
「っぱつ殴らせろぉ!」
アルフレッドもまた、ラスプーチンと同じく背後にジャックとロビンを転移させるや否や、ジャックは肩越しから身軽に跳躍してユーサー王の前に躍り出た。
「考えもなしに!」
ロビンの苦言は当たり前の感想であったが、ジャックの行動はユーサー王の反応を鈍らせた。剣を抜こうとした手も止めて、ユーサー王は思わず目の前に現れたジャックの顔に瞠目する。
「遅い!」
容赦無く拳で端正な顔を殴りつけると、ユーサー王は鎖帷子とともに音を立てて倒れ伏した。勝負あったな、とその光景を見て呟くラスプーチンに、アルフレッドとロビンの視線が集まる。ユーサー王の光景で呆気に取られているうちに、ラスプーチンは拾い上げるように坂本を俵抱えにして三人から距離を取る。
「待て!彼をどこに——」
「どこでも良かろうが。この男は我々側だ。」
侮蔑を込めた視線で、声を上げたアルフレッドに答える。
「我々、側?」
「まぁその内会う事もあろうさ。」
にたりと微笑むラスプーチンがその場から消えようと黒い靄に変わりだした時、再びアルフレッドの肩越しになにかが空を切った。
「そのお話、もう少し続けて頂きましょうか。」
金の装飾が施された深い紫の長針を構えながら、フェリクスはゆっくりとアルフレッドの前に進みでた。
「若造が大層な口を効くようになったな。」
坂本の体をグリゴーリーが後ろに放り出した途端、その姿は一瞬にして掻き消え、グリゴーリーの手には剣の長さほどある細い氷が出現した。
「貴方は一体何を企んでいるのですか?グリゴーリー・イェフィモヴィチ。男を探す手立てとは言いましたが、坂本殿の事ではなさそうですし。」
「ほう?見る目があるではないか。そうだな、ここまで来てくれたのだから教えてやる義理もあるか。なに、とある女に依頼されて色々と細々とした事をしてやっているだけだ。貴様らにも覚えはあろう?ここ長く姿を見せん青年の事くらいは。」
引きつった、まさか、という呟きとともに、喧騒がやみ、重い物が床に落ちる音がした。ジャックがユーサー王の胸ぐらを離して、瞳を震わせながらグリゴーリーに視線を注いだのだ。
「なぜ彼の事を、——!?」
隙を取られて、ジャックは壁に叩きつけられた。ゆらりと憔悴し切った姿のユーサー王が立ち上がる。
「ジャック!」
「ここまで、手間をかけさせてくるとは……あの時、そうなさっていればよかったのです!」
剣を振り上げてその剣先をジャックの頭に叩き落とそうとしたが、ロビンのダガーがその先を防いだ。
「私になんぞ構っている場合か?では忙しいのでな。」
今度は坂本と同じように一瞬にして姿を消したグリゴーリーには目もくれず、アルフレッドとフェリクスはロビンの足元にいたジャックの体をユーサー王から遠ざけた。
「なにも、本気でやらなくとも……。」
「本気で戻りたくないようですね。」
胸の辺りをさすりながら、ジャックはロビンと交戦するユーサー王の姿を見る。
「あの時そうしてれば、か……。あの時そうできなかったからやってるんだよなぁ。」
若干残る鈍い痛みに耐えながら立ち上がり、ジャックは手をユーサー王の方向に翳した。
「これだけはやりたくなかったけど、もう結界も張ってるから弁償はなしだし……。後ろに飛べ、ロビン!」
重い一撃を跳ね返して、ロビンは宙返りとともにフェリクスの前に立つ。追いかけようとユーサー王が床を蹴ろうとした瞬間、ジャックは怒鳴った。
「閃け!」
言葉が終わった後だったか、前だったか、それとも最中だったか。その速さは誰の目にも理解する事は不可能だった。青白い閃光は、ユーサー王がいた場所にまっすぐに降りて、まるで目の前に雷が落ちたような眩しさであった。
「目を瞑って、も付け足したほうがよかったか……。」
暫く目をしばたたかせたアルフレッドを端目に、ジャックは苦い笑みを浮かべる。雷が消え去ったところには、ユーサー王が膝をついて体から煙を出していた。
「あー、うん。まぁそうだよね。」
しかし、一同の目が釘付けになったのは、彼の体の状態でも苦悶の表情でもなく、突然その背に現れた蝙蝠羽である。その大きさは、一枚でもユーサー王の身長を優に超していた。
「あれが、[堕天使]の蝙蝠羽。」
「だけど完全な蝙蝠羽じゃないなぁ。」
常には隠しているものの、[天使]達は一対の白い羽毛の翼を持っていた。それを現すのは[人間]の前に現れる時か、もしくは戦術的に使用する時のいずれかである。
「威嚇するのはいいけど、自分の状態ちゃんと見ようぜ?」
ゆっくりと近付いて、ジャックは頭を垂れるユーサー王の顔を屈んで覗いた。
「お前の蝙蝠羽、白い小さな羽毛が生えてるの、誰が見たって明らかだろ?」
空いている左手をユーサー王が持ち上げた瞬間、ジャックは反射的にその手首を掴んだ。
「もっと自分の心に素直になれば、お前は自分自身を傷つけずに済むんだ。どうして自分を傷つけてまで、自分の心と反対方向に行くんだ?」
喉に迫り上がってくる熱い物を飲み込んで、ジャックは答えを待った。
「それは、それは、今更私が戻ったとてだれも歓迎してくれないと知っているからです。だれもが私の起こした戦争を憎み、だれもが私の犯した罪を恨んでいるのではないのですか。」
ジャックは少しの間口をへの字に曲げて、思い切りため息をついた。
「あーあ、そうか。俺らはまた、語らなさすぎてすれ違ったわけか。」
ユーサー王の首に両腕を回して、俯く頭を肩に乗せると、ジャックはその頭をぽんぽんと撫でた。
「[死神]になってから、[人間]はバカスカ死ぬからだれかと喋る暇もとんとなくなっちまって、俺の願望は[堕天使]を救う事です、なんて知ってる奴は本当に少なくなっちまったもんなぁ。……なぁ、ユーサー。もし皆が恨んでたら、一番恨んでいそうな俺とかロビンがこーんなとこまで来てくれるわけないだろ?」
やっと気付いたように目を見開いて、ユーサー王はジャックのシャツを握りしめながら息も絶え絶えに嗚咽を上げ始めた。
「いつでも戻ってきてくれれば良かったんだよ、お前は。」
やがてユーサー王が白い光に包まれると、ジャックは面倒臭そうに文言を唱えた。
「[ルシファー]、お前を叛逆罪から解放しよう。これからは"神の"を入れて名を[ルシフェル]に改めなさい。」
輝きが消えると、その姿は前とは打って変わった。黒かった髪は明るいヘーゼル色へ、瞳も橙から薄茶色へ。その姿は、古き騎士物語に描かれるユーサー王のものであった。
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