Verse 1-1
一つの国が世を統べる時代があった。敬意と畏怖を込めて、人々は自らの国を『帝國』と呼んだ。
* * *
隣室から大きな産声が上がる。女中達が部屋から血の付いたタオルや水を大忙しで入れ替えている中の出来事であった。真っ白い純白のタオルを抱えて、女中長が気持ち早足に隣室から姿を表す。
「おめでとうございます陛下、男の子に御座います!」
ソファーに座って俯いていた金髪の男、皇帝フランシスは待ち切れずに立ち上がる。待望の息子を、彼は逸る気持ちを抑えてゆっくりと女中長から受け取った。タオルの中の赤ん坊はすっかり眠っている。
「マリアの容体はどうだ?」
「はい、安定しております。」
良かった、とフランシスがほっと安堵のため息をつく。女中長は彼を隣室へ、妻マリアがいるベッドへ案内する。長い黒髪をゆったりと結んで、マリアは女中達に顔の汗を拭かせていた。隣のベッドのシーツはすっかり剥がされている。どうやら女中が洗濯の為に持っていったようだ。
「男の子だ、マリア。」
夫の腕の中からマリアはそっと息子を受け取った。妻が愛おしそうにその頬や頭を撫でていると、注意を促す為にフランシスは一度咳払いをする。やがて子供から目を離し、マリアはフランシスを見上げて嬉しそうに言った。
「彼の名前は、レイにします。」
「レイか、思い出深い名前だ。」
ふと遠い目をして笑ったフランシスに、マリアは困ったような微笑みを浮かべる。皇帝夫妻の第一子、やがて皇帝の座を継ぐ事になるであろうこの赤子は、暗い夜空に一陣の光がさす暁の空の下に誕生した。
* * *
皇太子誕生の報は帝國中を賑わせた。城下は祝いを意味する赤と白の花で飾られ、人々の金は経済を回した。貴族達は昼に城へ、夜は友人の邸宅へ足を運び、皇族の執務を手伝う神官達はそんな貴族達の相手で精根尽き果てていた。
「陛下、元帥閣下が来ております。」
漸く貴族の波が途切れ始めた時期。謁見の間で祝辞を述べに来ていた貴族を追い払ってすぐに、玉座で惚けているフランシスにお付きの神官であるロビンが疲労まみれの顔を浮かべてやってくる。一瞬、通せ、と口に出しかけたフランシスは、漸くロビンの言葉を理解したのか重い腰を上げた。
「応接間で会おう。マリアも呼んでくれ。」
フランシスも謁見の間から退室するのを見送りながら、かしこまりました、とロビンは一礼した。
黒い髪の男がロビンの後についていく。腰には太刀を佩き、煌びやかな礼装に身を包んだその男は、柔和な笑みを浮かべながら廊下の外の景色を楽しんでいる。身も凍てつく冬であったが、城の温室の中には様々な花が咲き乱れていた。男の正体は現在この世で最も有名な軍人である。今をときめく史上最年少元帥、現皇帝フランシスの兄、バスカヴィルであった。
「陛下はこちらでお待ちだ。」
金のドアノブを回しながらロビンはそう言った。中からは穏やかな家族の声が聞こえてくる。バスカヴィルは城に入ってから初めて口を開いた。
「ありがとうロビン。」
なにを思ったのか、その言葉にロビンは眉間に皺を寄せた。ただでさえ険しいロビンの表情が一層険しくなったが、バスカヴィルはそんな彼には目もくれずに応接間に足を踏み入れる。背後で扉が閉まると、赤子からマリアが目を離した。
「まぁヴィル! 来てくれたのね!」
未だあどけない面影を残すマリアは、爛々と目を輝かせて立ち上がる。赤子を抱いていたフランシスもゆっくりと立ち上がった。マリアの歓迎の声に、バスカヴィルはロビンに刀を預けて両手を広げる。駆け寄ってきたマリアを腕一杯に抱き締めて、バスカヴィルは挨拶した。
「久し振りマリア。子供が生まれてから体調はどうかな?」
「特に何事もないわ。」
少しだけ疲れの色は見えたが、マリアは満面の笑みでバスカヴィルに答える。フランシスも女中長に赤子を預け、バスカヴィルに右手を差し出した。
「そういう兄上は最近顔を見なかったが。」
「私はつつがなくだよ。それより君は大分疲れてるようだね。」
差し出された右手を握りながら、バスカヴィルは頭一つ分背の低い皇帝の顔を覗き込んだ。顔色は然程悪くはないが、声はいつもより枯れており、少し老け込んでいるように見えた。
「兄上が時期をずらして来て下さった事に感謝するよ。ここ一週間、ひっきりなしにやってくる貴族共の相手で引っ張りだこさ。」
肩を竦めた皇帝はロビンに紅茶の用意を命じ、兄に椅子を勧めた。しかし、バスカヴィルは頭を振る。
「私はまだまだ忙しいからこれで退散するよ。すまないね、応接間にもわざわざ移動してきてくれたんだろう? もう紅茶を取りに行ってしまったロビンには申し訳ないけれど……。」
扉を一瞥して、バスカヴィルは苦笑した。彼はなにからなにまで仕事が早いね、と言うと、別れもそこそこにするりと部屋からいなくなってしまう。マリアが顔を上げると、フランシスが少し寂しそうな顔で扉を見つめていた。
「大丈夫よ、きっと仕事が忙しいだけですもの。」
沈黙を守ってソファーに座り込んだフランシスの両肩に、マリアはそっと手を置いた。大きなため息が部屋に吐き出される。振り子時計の秒針音が時を刻んでいると、遠くから慌ただしい足音がやってきた。応接間の前でぴたりと音がやみ、勢い良く扉が開く。
「皇帝陛下、分家当主が!」
息を切らせたロビンの手の上にあるのは、ティーセットではなく一枚の紙切れである。神官長の言葉にフランシスとマリアは息を呑んだ。恐る恐るその紙を受け取り、マリアの目には触れないように広げる。
「今すぐお越しを。」
低く掠れたロビンの呟きに、フランシスは彼の顔を愕然と見つめる事しか出来なかった。
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