ボアーズヘッド亭の主人
ここサウスワークにあるボアーズヘッド亭はロンドンで一番の酒場…とは程遠い飲み屋だ。立地が悪い訳でも、酒やエール、提供する飯がまずい訳でもないのだが、いかんせんここのオーナーが悪すぎる。
私のオーナーはサー・ジョン・ファルスタッフと呼ばれるこの辺りで知らぬ者はいないほどの巨漢の老騎士だ。戦場から必ず生きて帰る、と言ったら聞こえはいいが、実際は敵地に向かう前に逃亡したり、敵を前にして雲隠れしたり、誇り高き王国の騎士であるというのに敵に命乞いして戦わずに仲良くなって帰る、などとなんとも情けないエピソードをいくつも抱えている。ただの臆病者であればまだマシだったのかもしれないが、この男は戦が終わるといかにも命からがら、自分も戦ってきたと歴戦勇者のように振る舞い、悪知恵が働くのか死んでいった味方の手柄を根こそぎ横取りしていく。だから戦場から帰還する際はそれなりの報酬と勲章を授かるのだが、他の騎士が命に変えても欲しがる勲章には見向きもせず、本来自分のものではない報酬金で飲みに行く、というとんでもないお方なのだ。
まあ私としてはオーナーが客としてお金を落として酒を飲んだり飯を食べたりしてもらえばそんな些細なことなど気にならないし関係ないのだが、最近は彼のお金の出所が怪しいのも気になっている。
ファルスタッフ殿にはピストラとバルドルフォと呼ばれる二人の召使いというか従者というか子分のような男共がいるのだが、酒に強いバルドルフォが地元の小金持ちに酒を飲ませて、手ぐせの悪いピストラがその小金持ちが酔っている隙に財布をちょろまかし、酒代を抜き取ったのを確認してからファルスタッフ殿が財布を拾ったと言って返す、という手口でお金を盗んでいるという噂や被害の声があちこちの酒場から聞こえてくるのだ。
おそらくクロなのだが一飲み屋の主人がオーナーに楯突くわけにもいかないので、渋々私は見て見ぬふりをすると決めこんでいる。
さて噂をすればなんとやら。ファルスタッフ殿一行がいつものようにボアーズヘッド亭にやってきた。
「主人、いつものを」
私は思考と料理の仕込みを一旦止めてオーナーであるサーに目線を向けると、サーは少し難しい顔を浮かべながら自分の分のサックと従者の酒、そして大好物のつまみであるアンチョビを所望してきた。ちなみにサックとはシェリーのような甘さの白ワインのことでこちらもサーの大好物である。
普段であればカポンと呼ばれる去勢された雄鶏を注文されるのだが、今日は例によって魚の日の一日である金曜日だったから自重したのだろう。
まぁ、どうせサーは七つの大罪の一つである暴食を体現したような男であられるからそのうちそんな決まりなど破って注文するに違いない。そうに決まっている。
故に私はいつものように酒とアンチョビをテーブルに出してからカポン料理の準備にかかった。
「主人、やはり先に腹ごしらえをする」
しばらくするとサーが追加でカポンを注文した。ほら見たことか。私は自分の予想が当たっていたことに浮かれながらカポンをテーブルに持っていくと、もう瓶の半分を空にしたサーが時折アンチョビをおやつのように口に運びながら手紙を書いているところだった。
私は字があまり読めないので詳しい内容は分からなかったが、燃えるような愛や花のような美しさなど普段ここでは聞くことのない詩人のような甘いセリフをぶつぶつと口にしていたのでおそらく恋文を書いているのだろう。案外ロマンチストなのかもしれない。
だがしかし。そのまま書き続けるかと思いきや、カポンが着くやいなやすぐにナプキンを胸につけはじめた。やはり食欲には勝てないのだろう。サーは手紙を脇にどかした後、丁寧に肉をナイフで切るとそのままフォークで口に運んだ。
まるで飲み物を飲むかのようにペロリと平らげるとそのまま瓶に入ったサックの残り半分を一気に飲み干した。
一方従者達はというと、すでに泥酔し、酔い潰れたピストラとは裏腹にバルドルフォがもっと酒が欲しげにサーにアピールしていた。だが、サーは邪魔するなと言わんばかりにバルドルフォを睨みつけると、私の方に向いてそのまま追加でアンチョビを注文した。
今日の市場で仕入れたオイル漬けのアンチョビだが、相当お気に召したようだ。
私は厨房に向かいアンチョビをまたお皿に盛ると、そのままサーの前に持って行った。ついでに空になったサックを入れ替えると、サーは少し味に飽きたのか何か別のものはないかと頼んできた。
「市場で買い付けた鹿肉のパイと、食後でよろしければ最近巷で話題のアプリコットがございますがいかがなさいますか?」
「全部いただくとしよう」
食後に果物を食べるのはフランス人みたいだと大抵のイギリス人は敬遠しがちだが、ファルスタッフ殿にそのようなプライドはないしなんなら喜んで口にする。ただ食い意地を張っているだけかもしれないが、サーのそんなところは憎めないし、サーの食べっぷりのおかげで毎月店で出す食事の大体3分の2は彼の胃袋の中に消えていくので経営的にはすごく助かっているのもまた事実だ。たまに私のまかないまで食べてしまうのが玉に瑕だが。
何はともあれ、この二つも例外なく平らげたサーの皿を下げて厨房に戻り、次は何を注文するかなと考えていると、突然店の入り口のドアの来客を示す鈴がなり、何者かが入ってきた。
「ファルスタッフ!!!」
このキンキンとした甲高い声はカーユス博士だ。
怒声から察するにサーがまた従者の二人と一緒に何かをやらかしたのだろう。私は面倒はごめんだ、と思いながらもサーの呼ぶ声に従い、替えのワインを持ちながらテーブル席に向かっていった。
歴史は整合性合わせるの難しいですね。勉強しなおします。