私は婚約者"候補"でしかないはずなのに
ザックはアメリアの両肩を支え、「歩けますか?」と確認を取ると、彼女を支えるようにしてゆっくりと歩き出した。
(ひとまず、これで暫くはアメリアのことは考えずに済むわね)
綺麗に手入れされた金の髪が治療小屋を後にするのを見届けて、私は「ありがとうございました、ルクシオール様」と向き直る。
「アメリアの不調に気づいてくださったおかげで、更なる悲劇を回避することが出来ましたわ」
「いえ、もっと早くに気が付くべきでした。申し訳ありません。ミーシャ様は問題ありませんか? 心労の積み重ねは身体に毒です」
自然と伸ばされたルクシオールの右手が、私の髪に触れようとした刹那。
パンッ! と甲高い音と共に、視界が殿下の背で覆われた。
殿下がルクシオールの手をその手で弾いたのだと理解したのは、背を震わせるような低い声が耳に届いてから。
「あまり気安く触れないでいただきたい、大神官殿。ミーシャ嬢は俺の婚約者だ」
「これはこれは……大変な失礼を致しました。ミーシャ様を心配するあまりに、つい。とはいえ、私の記憶ではミーシャ様はまだどなたとも正式なご婚約を交わされてはいらっしゃらないはずなのですが」
常と変わりない穏やかな笑みを携えて、ルクシオールはちらりと私を見遣る。
私は「え、ええ」と急ぎ頷き、
「ルクシオール様のおっしゃる通りですわ。今の私は、あくまで殿下の婚約者候補に過ぎません」
「俺は、そうは思っていない」
殿下はくるりと振り返り、どこか苦し気な瞳で私を見つめた。
その表情に薄く息を呑むと、殿下は苦笑を零し、指先でさらりと私の髪を撫でる。
「あなたさえ許してくれるのなら、今すぐにでも"候補"の文字を消し去りたいほどだ。……愛する人が他の男に触れられるのを黙って見ていられるような余裕は、今の俺にはない」
「!」
ちゅ、と掬い上げた私の髪に唇を落とすも、殿下の瞳は私を捉えたまま。
熱と欲、そして微かな自嘲を含んだルビーレッドの艶めきに、ドクンと大きく心臓が跳ねた。
「~~~~お、お兄様っ!」
らしくない大声でその場にいるはずの名を呼ぶと、「俺か!?」と離れた場所から声がした。
見ればオルガは大きな身体を必死に折り曲げ、厨房の物陰に。どうやら隠れていたよう。
それでも事の成り行きはしっかり見守るつもりだったらしく、両手で顔を覆いながらも開いた指の隙間からこちらを見ている。
「この場は殿下とルクシオール様にお任せして、家に戻りましょう。ユフェはお母様の所ですので、迎えにいってきますわ」
「いいや、俺も一緒に向かったほうがそのまま家に向かえるだろう。そろそろ腹がなりそうだ!」
ひょこりと物陰から出て来たオルガの体躯とは少々不釣り合いな動作に、なぜだかほっとしてしまう。
調子が戻ってきた私はやっとのことで殿下を見上げ、「では」と軽く膝を折った。
「一度、下がらせていただきますわ。この場はお任せ致します。シルクとヴォルフ卿が戻りましたら、家に戻るよう伝えてくださいませ」
「……ああ、わかった」
「ルクシオール様も、"浄化"の邪魔をして申し訳ありませんでした」
「お役に立てたのなら良かったです。次はこちらの治療小屋が対象ですので、"浄化"を進めておきますね」
先ほどまでのピリッとした空気はどこへやら、ルクシオールはすっかりいつもの柔らかな雰囲気に。
殿下はどこか不満気だけれど、己の気分で采配を間違えるような人ではないから、問題はないはず。
(ごめんなさい、殿下。そんな目で見つめられても、今の私に"ご機嫌取り"は出来ないわ)
――そろそろ、認めなければいけないのかもしれない。
どんなに冷静であろうとしても、ルベルト殿下の前では簡単に"余裕"など取り払われてしまう。
怖れて、疎んで、それでも結局芽吹いてしまったこの感情につける"名"が、きっとその理由なのだから。
***
「美味かったぞ、ミーシャ! まさかミーシャ手製のスープが味わえるとは……やはり俺も一緒に来て正解だったな!」
「シルクとユフェも一緒に作ったスープですが、お兄様に喜んでいただけて嬉しいですわ」
本日の昼食は数種の野菜とベーコンのスープに、切り分けたパンとチーズ。
食卓は四人掛けだけれど、私とユフェが食事を終える頃にシルクとヴォルフ卿が戻ってきたので、皆が座って食事をとれた。
「皿はここに運べばいいのか?」と空の食器を調理場に持ってくるオルガの眼は、好奇心にキラキラとしている。
無理もないわ。領地の改革だ商売だと出歩いてばかりの私とは違い、オルガは幼少期からほとんどを本邸で過ごしているのだもの。
お父様が、お母様の愛したブルッサムの地に入り浸っているせいで。
本来、邸宅の管理は夫人の役目。けれどお母様は亡くなっているし、"当主"は不在がち。
幼いながら自然と"代理"を担うことになったオルガは年々こなす仕事の幅を広げ、今では"当主"の仕事のほとんどを処理している。
(オルガの境遇なんて、一度目の時はまったく考えもしなかったわ)
いつでも偉そうに威張り散らかしている、嫌な兄だと思っていた。
でも違う。"自由"を奪った原因である妹が"悪女"と呼ばれるまでに好き勝手していたのだから、憎んで当然だわ。
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