皇太子は唯一を望む
「……その言葉があなたの本心ならば、しばらく執務が手に付かないな」
「なら……っ!」
私は感情任せに立ち上がり、
「ならば、私が"聖女の巫女"でなかったらどうなさるおつもりなのです!? "悪女の巫女"は国のために処され、殿下は"聖女の巫女"との婚姻が定められているのですよ!? もしも、もしも私が殿下を信じて心を許し、"悪女の巫女"と定められたのなら。殿下の"定め"を裏切りと恨み、死んでも許せないでしょう……! それとも殿下は、死に行く者の心など取るに足らないとお考えで――っ」
「その時は」
殿下は私の右手を掴み、
「共に、国を出たらいい」
「っ!? な、にを……」
「もとより俺が欲しいのはあなたであって、"聖女の巫女"ではない。この国があなたを不要と切り捨てるのならば、こちらも見限ればいい。所詮、"聖女と悪女"伝説はこの国に限った話だ。外の世界は広い。我が国の"昔話"どころか、名も知らない国も多くある。あなたが"悪女の巫女"だったとしても、命を捧げてやる必要はない。こうしてあなたの手を引いて、別の地で安泰を求めればいいだけだ。俺は"働き者"だからな。どこでもうまくやれるだろう」
「……殿下。ご自分が何をおっしゃっているのか、わかっていますの?」
喉がひりついて、声が掠れる。
仕方ないでしょう? だって、この人が。
目の前の"皇太子殿下"が、国を捨てて私を選ぶだなんて。
夢の中の戯言だとしても、信じられないようなことを。
あまりにも当然のように、口にするだなんて。
「随分と前からそのつもりでいた。だが、もっとあなたの心を得てから話すつもりだった。……あなたのことだから、"もしも"の時に備えての策を講じているのではないかと。今の仲では俺の腹の内を知ったところで、無用な心配だと切り捨てられるだろうと考えていた。……もっとあなたの背負った恐怖を理解すべきだったな。すまない」
「そ……んな、殿下が、謝罪なさることでは」
「ミーシャ嬢」
殿下は私からほんの一瞬も目を逸らさないまま、握った手に力を込めて立ち上がる。
「白状しよう。確かに初めは、ただの興味だった。不可解なものは面白い。あなたを取り巻く違和感の解明に飽いたのなら、適当なところで切り上げ、俺もこの国の"定め"に従うつもりだった。だが、あなたを知れば知るほどに、その興味は薄れるどころか増してしまった。俺自身も、想定外のことだ」
握ったままの私の指先を包むようにして、もう片方の掌がそっと重なる。
「俺は"愛"について、理解が乏しい。どのような感情を"愛"と呼ぶのか、未だに定まらずにいる。だがはっきりとしているのは、あなたには、あなたらしくあってほしい。笑う顔だけではなく、悩める姿だって俺の視線を奪い心を惹きつける。あなたのことは全て知りたいし、あなたが望むのならばなんだって捧げよう。あなたが一番に呼ぶ名は、その瞳に映る姿は、俺でありたい」
焦がれるような甘い瞳が、逃さないとばかりに強い色を帯びる。
「あなたを慕う者は多い。あなたが"悪女の巫女"とされたなら、多くの者が"救い"の名の下に手を差し伸べ、この指先に選ばれんと焦がれるだろう。だが、俺にはそれすらも疎ましい。あなたには俺だけで充分だと、迷わず選んでほしい。俺は、あなたの唯一になりたい」
だから、どうか。
唇に、焦れたような指先がそっと触れる。
「あなたを欲する俺を、許してほしい」
「――っ!」
咄嗟に腕を張ってその身体を離したのは、拒絶というより防衛本能に近い。
心臓がうるさい。頬どころか身体全体が熱を帯びているのが、嫌でも分かる。
だからこそ――芯の臓が潰れるほどに苦しくて、ひどく、かなしい。
「っ、本日はこれで、下がらせていただきますわ」
顔を伏せたまま逃げるようにして向かった扉を開くと、「うわっ!?」と驚いたような声がした。
シルクだ。隣のエルバードも驚愕を隠しきれない様子で口を開閉したのが見えたけれど、挨拶もせずに「帰るわよ」とそのまま廊下を進んで行く。
頭の後ろで、シルクが急ぎ簡単な挨拶を述べて駆けて来るのが聞こえる。
すぐに追いついたのに、私に声をかけるどころか数歩後ろを保って歩くのは、護衛騎士としての立場を守っているのか、私を気遣っているのか。
(どうして。どうして、どうして……!)
もう愛さないと決めたのに。
もう二度と、この心を捧げないと決めたはずなのに。
(一緒に国を出ようだなんて言ったのは、一度目のアメリアだけだったわね)
けれどあれも、私を懐柔するための偽りだった。
ならば、今回も。……いいえ、でも。
(私はあの人を、信じたいのかしら)
愛してなどいない。ならば、この迷いはいったい何に起因しているのか。
渦巻く感情は、なかなか収まらなくて。
私はひとり揺れる帰りの馬車の中で、少しだけ涙を零した。
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