聖女の巫女と聖なる力
「いくぞ」
そこからは、本当にあっという間だった。
宵闇の中を流れゆく景色はどれも曖昧で、頬を通りすぎる風だけは、やけに主張的。
靡く髪が初めて知るほどに爽快で、自由とはこんな気分なのかしら、なんて。
昼間よりも冷たく濃い草花の香りに気を取られているうちに、リューネが「着いたぞ」と立ち止まる。
途端、私は即座に異変に気が付いた。
「湖が、黒い……?」
影のそれとは異なる、漆黒の霧のようなものが、静かに眠る湖の中を右往左往している。
「それが穢れだ」
リューネはちらりと精霊族の二人を見遣り、
「この者らが姿を現したことによって、見えるようになったのだろうな」
その背から降りる私に視線を移し、リューネが再び問う。
「本当に良いのだな、ミーシャ」
「ええ。やり方を教えてちょうだい」
リューネは覚悟を決めたようにして一度目を閉じてから、
「そなたを遣わした聖女ネシェリに祈り、そして想像をするのだ。己の内に宿る白く純粋な聖なる光が身体を巡り、放出される様を。そしてあの黒く邪悪な穢れを覆い、消し去る光景を。太陽の光を取り込む、美しい湖の姿。ここに暮らす多くの命あるものに愛され、共に育んでいく活気ある姿を」
「祈りと、想像……」
前回の私はお妃教育の一つとして、神殿で祈りを捧げる機会があった。
けれどそれも、形だけ。思えば心から聖女ネシェリを信じ、祈りを捧げたことはない。
アメリアに依存していた私は、彼女以外を"慈しむ"という感覚がよくわからなかったから。
(けれど、今なら)
私は両手を組み目を閉じて、聖女ネシェリに胸中で語りかける。
(お願い、ネシェリ様。私が本当にあなたの巫女だというのならば、愛する者を守るために、力をお貸しください)
リューネに言われた通り、想像する。
自分の内側の深く、奥底から湧き出る聖なる力。
暖かくて、柔らく、それでいてどんな色にも染まらない鮮明な光。
私の血液を、身体という器を媒介に巡り膨らんで、溢れ、そして広がっていく。
(どうか穢れを癒し、消し去って……!)
溜まった力が放出され、湖を覆う気配。
目は閉じたままだというのに、なぜか、鮮明にその光景が思い浮かぶ。
時間にして、ほんの数秒。
するりと力の消え去った感覚がして、そっと瞼を上げる。
刹那、飛びこんできたのは、先ほどと同じ静かな夜と、穏やかな湖。
けれどもその水面には、それまで浮かんでいた黒い靄が欠片も見えなくなっている。
「うまくいったの?」
呟いた途端、がくりと膝から力が抜け、その場にへたり込む。
「ミーシャ!」
即座にリューネが私の隣に伏せ、
「私にもたれかかるといい。息苦しさはないか?」
「ありがとう、リューネ。足にちょっと力が入らないだけよ」
(これが聖なる力を使った代償、ってことかしら)
と、私の横からすいと精霊たちが飛び立ち、湖へと飛び込んだ。
波紋が消えぬうちに再び飛び出てきたかと思うと、また潜り、浮上してくる。
「喜んでいる……のかしら?」
「だろうな」
リューネが嘆息交じりに肯定したと同時に、精霊たちが私の側に戻ってきた。
キャッキャッと無邪気な声をたて頭上でくるくる回ると、ほわりと淡い光の粒が雪のごとく降ってくる。
「精霊の祝福だ」
リューネは戸惑う私の頭上を見上げ、
「人間に対しては、病の治癒など生命力の回復、幸福の訪れといった効力があるという。礼のつもりなのだろう」
「お礼……あ」
重かった両脚に、血液が廻る感覚。
ぐっと力を込めてみると、立ち上がることができた。
「精霊の祝福って凄いのね」
私は指先でちょんと精霊の羽をつつく。
「ありがとう。私を頼ってくれて」
くるりと回転した精霊たちが、湖へと飛び立ち水中に消える。
今度は浮上しては来ない。湖に帰ったのだろう。離れがたい、自分の居場所へ。
ふと、過る。
(私に聖女の巫女としての力があると知ったなら、お父様は、私を許すのかしら)
「ミーシャ」
深い声にリューネへと視線を落とすと、じっと見つめる金色の瞳とかち合った。
美しい銀の体毛が、月明りを受けながら柔く靡く。
「リューネ?」
「約束をしてほしい。聖女の祈りを、むやみやたらに使わないと」
リューネはどこか寂し気に瞼を伏せ、
「請われるままに祈り続け、若くして死した者を知っている」
「…………」
(リューネが浄化に否定的だったのは、そういう理由だったのね)
その人は聖女、ネシェリのことだろうか。
それとも、私と同じように聖女の巫女だった人だろうか。
訊ねたい気持ちを、ぐっと押し込める。
記憶を、ましてや辛い思い出を言葉にするというのは、とても苦しいことだと知っているから。
「わかったわ」
私はそっと腕を伸ばし、リューネの首元に抱き着く。
なぜだか、無性にそうしたくなったから。
「ちゃんと、時と状況を考えて決める。リューネも、私が間違えそうになったら教えてちょうだい」
「ああ。そなたが聞く耳を持たずとも、危険だと判断したら力尽くでも止めよう」
「ふふ、怖いわね」
「精霊とはそういうものだ」
リューネが軽く首を傾げ、するりと頬で私を撫でる。
もふりと柔らかな銀の毛。私の髪と同じ色は、夜の闇の中でも美しい。
「帰りましょう、リューネ。なんだか一気に眠くなってきたわ」
「ならば帰りはそなたが眠れるよう、ゆっくり戻ろう。寝所には私が運んでおく」
「ありがとう。お願いするわ」
言いながらも欠伸が込み上げてきて、私はリューネにもたれるようにしてその背に乗り上げた。
心地よい夜風がリューネの毛を揺らして、私の頬を優しく撫でる。
「おやすみ、ミーシャ。聖女の加護があらんことを」
沈みゆく意識の中で、労わるような声が遠のいていく。
完全に手放す間際、私って本当に聖女の巫女だったのね、なんて。
今更ながら得た実感に、心から安堵した。
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