湖の精霊の頼み事
"聖女候補"でなくなった後は、皇室と神殿の首輪付きか、この心臓はもう動いていないかのどちらか。
(結局、私に本当の意味での自由が訪れることはないのね)
夜の闇が支配する自室のベッドで、私はもそりと寝返りをうつ。
聖女候補でなければ。公爵令嬢でなければ。
いいえ、考えるだけ無駄なこと。
この村の人たちだって、シルクだって。"自由"かと問われれば、決してそんなことはない。
この館の使用人だって、そう。
ルーンも、ソフィーも。エルバードは言わずもがな、ルベルト殿下だって。
皆、それぞれの生まれたと同時に定められた環境としがらみの中で、最善を尽くしている。
(アメリアも、きっと同じだったのね)
聖女の巫女と悪女の巫女。
己の命を懸けた騙し合いなのだと、私は気づけなかっただけ。
(だからといって、許すつもりはないわ)
聖女の巫女だからといって、私は"聖女"ではない。
純粋無垢な慈悲など、持ち合わせていないのだから。
「……ミーシャ」
足元で丸まり眠りについてたリューネが、ふるりと耳を震わせ鼻先を上げる。
「どうかしたの? リューネ」
「……やはり、来たか」
「え?」
刹那、私の周囲にふわりと柔い風が舞った。
小さく淡い光が飛び交う。
「これは……妖精?」
大きさは私の人差し指程度。
蝶のような魚のヒレのような羽を背につけた人型の生物が二体、ひらりと私の目の前で舞う。
「精霊だ。ネルル湖の」
私を守るかのようにして、リューネがするりと私の身体に尾を巻き付ける。
「気を緩めるな、ミーシャ。私の同族であるとはいえ、精霊というのは人とは異なる価値観を持つ」
リューネは鋭い視線を飛び交う彼らに向け、
「彼女は我が契約者。無礼を働けば、ただでは済まさん」
ひらりと身をひるがえした精霊たちは顔を見合わせ、今度はリューネの側でふわりと飛び交う。
リューネはしばらく彼らをじっと見て、
「ミーシャに、ネルル湖を浄化してほしいそうだ」
「私に?」
「精霊とは美しい場所を好むものだ。穢れは目に見えるものだけではない。撃ち込まれた数々の胴弾に、大量の水鳥の死。それだけでもあの湖は淀みだしていたというのに、この地の者ではない人間が大勢、湖を掻き乱した。中にはこれまで、多くを殺した者もいただろう? あの湖は今、目に見えずとも多くの穢れで染まっている」
「リューネは知っていたの?」
「見えてはいた。だが、あの湖は私の縄張りではない。それに」
リューネは鼻先をすり、と私に擦り寄せ、
「浄化には、ミーシャが内に秘める聖なる力を使う。聖なる力は生命力のひとつ。契約者である私の力を媒介にしようと、使えば使うほど、その命を削ることに変わりはない。……あの湖を浄化したところでさほど影響はないだろうが、それでも私からミーシャに願う話ではない」
私はそっと伸ばした指先で、リューネの鼻先を撫でる。
「……私に二度目をくれたのは、精霊族を救うためだって聞いたはずだけれど」
「その通りだ」
「なら、精霊族の困りごとを優先すべきではないの? 私の、命よりも」
「それは違う」
リューネは頭を私に擦り寄せ、
「今のこの国にはまだ、精霊族の住める地が多数残っている。あの湖ひとつが穢れたとて、別の地に移動すれば済むだけのこと。それに、あの程度の穢れならば、数年すればまた自然と浄化されるだろうからな。わざわざそなたが身を削らずとも、策がある話だ」
「そう……」
(この子たちも分かっているけれど、わざわざ頼みに来たということなのね)
あの美しい湖から、離れたくはないから。
「リューネ。誰にも気づかれずに私をこの部屋から出して、ネルル湖まで運ぶ手段はある?」
「なに? ミーシャ、そなた」
「浄化したいの。といっても、やり方も分からないから、リューネが教えて」
「……本当に良いのか?」
「ええ」
顔の前で両手を開いてみせると、掌に精霊がふわりと降り立つ。
私とリューネの会話はどの程度理解しているのだろう。
美しい微笑みを浮かべる瞳は、純粋無垢な幼子のよう。
「愛しい地から離れがたい気持ちは、私にも理解できるから。それに、精霊とはいえ誰かに頼られるのは嫌いではないと気付けたの。私自身も驚くべきことなのだけれど、知らんぷりして放っておくには……愛しいものが、増え過ぎたわ」
精霊族だけではない。
このまま放っておいてシルクや村の人たちに、何か不都合が起きたなら。
そう考えてしまうほどには、私をこの地に住む人たちを愛してしまった。
「……そなたが、そう決めたのなら」
リューネがベッドから飛び降りると同時に、掌の精霊も再び宙を舞った。
「私に乗るといい、ミーシャ」
「え? でも、リューネと私じゃ、あまり大きさが変わらないような……」
「問題ない。今のそなたひとりくらい、簡単に運べる。誰にも見られたくはないのだろう?」
鼻先を上げ促すリューネに、私は意を決して「それじゃあ」とベッドから降り立つ。
えいやとその背にまたがり首元にしがみ付くと、もふりとした毛が鼻先をくすぐった。
「口を閉じて、しっかり掴まっているんだぞ」
私が頷いたのを合図のようにして、ベランダへと通ずる扉が開いた。精霊たちだ。
予感に、心臓がドキドキする。
ぐっと腕に力を込めると、リューネが小さく笑んだような気配がした。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます!
気に入りましたら、ブックマークや下部の☆→★にて応援頂けますと励みになります!