私の知らない奇跡
オルガの顔から笑みが消える。
自身を落ち着かせるようにして目を閉じると、深く息を吐きだし、
「この家に、ミーシャが入ってはいけない場所などない」
オルガは引き出しを開き何かを掴むと、立ち上がり私の眼前まで歩いてきた。
「これが鍵だ。……終わったら、返しにきてくれ」
「はい。ありがとうございます、お兄様」
差し出された鍵を受け取ろうと手を伸ばした刹那、
「ミーシャ」
オルガはガシリと両手で私の手を包み、焦ったような瞳で見下ろす。
「すまない……! "当主"として鍵の所有権を得てから、どうすべきか迷い続けていた。けして、隠し続けようとした意図はなくてだな……!」
「わかっておりますわ、お兄様。現にこうして、鍵を貸してくださったではありませんか。……私も、迷っていたのです。やっと、お母様を知る心構えが出来ました」
「……そうか。ミーシャなら、きっと大丈夫だな」
引き留めていた両手が、するりと離れる。
オルガに見送られて執務室を出た私を、心配気な顔のシルクとソフィーが迎え入れてくれる。
「大丈夫か、ミーシャ」
「お嬢様! 顔色がよろしくありません。ひとまずはお部屋に戻って、休息をとられたほうが――」
「心配ないわ。少し、緊張しただけよ」
お母様の部屋に行くわ、と。
歩きだした私の後方から、ソフィーの不安が伝わってくる。
ソフィーはお母様が亡くなった後に雇用されたから、私と同じくお母様についてよく知らない。
私からお母様の存在を完全に奪う為の、お父様の策略だったのでしょうけれど。
今となっては、そのお陰で助けられた部分も多かったように思える。
「……ここね」
お父様の使っていた部屋の、隣。
近づくことさえ許されなかった扉は想像よりも簡素で、私のそれと大差ない。
私の手の内にはくすんだ鍵が二つ。躊躇を振り切るようにしてしっかりと握り、
「ソフィーとシルクはここで待ってて。手助けが必要な時は、声をかけるわ」
「わかりました。お待ちしております、お嬢様」
「……無理はするなよ、ミーシャ」
了承の代わりに笑みを返し、扉と向き合った私は手の内の鍵を一本引き抜き、鍵穴に差し込んだ。
ぐっと力を込めて回すと、カチャリと解除を知らせる音が。
いっそう胸を強く打つ心臓の音を自覚しながら、扉を開き、足を踏み入れる。
(ここが、お母様の部屋)
「……暗いわね」
日中だというのにカーテンが閉じたままなのは、使用人の出入りも厳しく制限されていたからね。
定期的に清掃をさせていたからか、思っていたよりも埃っぽさは感じない。
(愛するお母様と過ごした"証"が埃に埋まるなんて、お父様が許せるはずもないものね)
窓へと歩を進め、カーテンを開く。途端。
「……っ」
私の呼吸を奪ったのは、壁に飾られた一枚の絵。
穏やかな緑の瞳でこちらで見つめる貴婦人は、柔らかな薄紅色の髪がよく似合う愛らしくも凛とした面持ちをしている。
その顔立ちはどことなく、お兄様にも私にも似ていて。
「……おかあ、さま?」
初めて見る女性。それでも、全身の血が間違いないと騒ぎ立てる。
視線を逸らせないままふらりと近寄り、もう一度「お母様」とはっきり口にした。
「……やっと、お会いできましたわ」
湧き上がる恋しさを自覚しながら、それ以上に膨らんだ疑念が歓喜に影を落とす。
――本当に、この方が。
奪うだけだった私を、愛してくれていたのかしら。
「……鏡台は」
目的の物を探す為にと、やっとのことで見渡した部屋の調度品は柔らかな色調で統一されていて、丁寧に使われてきた古いものが多い。
主を喪って長いはずなのに、寂しさよりも穏やかな心地すら湧き上がってくる空間に、私はやっとのことで理解した。
お父様が私をあれほど私を恨んでいたのは、唯一無二の"安らぎ"を奪われたからだったのね。
「……あれね」
鏡台は、丁寧に整えられたベッドの横に置かれていた。
上品な造りのそれはお母様が嫁がれた時に新調したのか、ほとんど傷もない。
鍵穴がついていたのは、真ん中の一番広い引き出しだった。
試しにそのままくっと引いてみても、引き出しは動かない。
(やっぱり、これのようね)
皇后陛下から譲り受けた鍵を差し込み、手首を捻る。
と、鍵はくるりと回り、確かな手ごたえを伝えてきた。
ごくりと喉を鳴らしたのは、無意識。決意を込め、引き出しを開く。
「これは……手帳?」
タイトルのない小冊子を手に取り、開く。
刹那、飛びこんで来た文字に、心臓がドクリと跳ねた。
『見つけてくれてありがとう、可愛いミーシャ。"聖女の巫女"となったあなたのこれからが幸せであることを祈って、私達に起きた奇跡について記しておきます』
「……っ! お母様は、本当に……」
(私が"聖女の巫女"だと、知っていたのね)
でも、どうして? お母様が記した"奇跡"に答えがあるのかしら。
鏡台の椅子を引き腰かけて、躊躇する指先を叱咤してページをめくる。
『私のお腹を元気に蹴るあなたが、どんなレディになったのか。直接見ることが叶わなくて、残念に思います。けれどきっと、厳しい試練を乗り越え、素敵な日々を手に入れたのだと信じているわ。だってあなたはネシェリ様に選ばれるほど強く美しい魂を持っていて、頑固だけれど頼りあるお父様と、心優しくも勇敢なお兄様が寄り添ってくれているはずだから』
「え……?」
(お母様は、お父様が私を大切にすると思っていたのね)
そう信じて言葉に残すほど、お母様から見たお父様は、愛情深い人だったのかしら。
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