お母様の鍵
「キャリーはお腹にいるあなたが"聖女の巫女"に選ばれたことも、あなたを産み落とすと同時に自分の生が終わってしまうことも知っていたの。それでも最後まで、あなたの幸せを願っていたわ」
これを、と。
皇后陛下は、小さな鍵を私に握らせた。
「キャリーの鏡台の鍵よ。あなたが"聖女の巫女"として洗礼を受けたら、渡してほしいと頼まれていたの」
「お母様が……?」
「本当に、本当にごめんなさい」
皇后陛下はきつく目をつぶり、
「あなたが父親から辛い仕打ちを受けていると知ってからも、助けてあげることが出来なかった。何度ロレンツ前公爵にキャリーの願いを伝え叱責しても、あの人は変わってはくれなかったわ。キャリーに、あなたを見守ってほしいと頼まれていたのに、ただ"見ている"ことしか出来なかった。あなたがこれまで負った痛みは、全て、守れなかった私のせいだわ」
(皇后陛下が、お父様を叱責していた……?)
やっと、腑に落ちた。
あんなにも私を疎んでいたのだから、当主の名の下、私を閉じこめることも、財に制限をつけることも可能だったのに。
望んだドレスは全て手に入れてきたし、食事だって、お父様やお兄様と変わらないメニューなのはもちろん、デザートだって自由に作らせることが出来た。
制限を指示する手間を面倒に思うほど私に関心がないのか、"聖女の巫女"候補である公爵家の娘としての外聞を優先したのかと考えていたけれど。
(皇后陛下が睨みをきかせてくれていたおかげだったのね)
「……皇帝陛下ならびに皇后陛下は、"聖女の巫女"候補に対しての介入を禁じられていました。気を回していただけただけでも、幸運なことです」
皇后陛下のせいではない。
そう込めて微笑んでみせると、皇后陛下は余計に苦し気に眉根を寄せた。
けれどもすぐにぐっと顔を上げ、
「あなたとルベルトが結ばれて、本当に嬉しいわ。これからは沢山甘えてもらえるように、私も努力するわね」
私の手を優しく撫でる皇后陛下は、心から私を慈しんでくれているのだとよくわかる。
だからこそ、戸惑ってしまう。
礼を返すべきなのか、気持ちだけでも充分嬉しいと遠慮すべきなのか。
"甘えを許してくれる大人"のいなかった私には、正解がわからない。
そんな私の躊躇を察したようにして、皇后陛下はにこりと笑んで立ち上がる。
「チョコレートが好きだと聞いたわ。それから、私がフィッティングの後によく食べるフルーツのタルトも用意したの。好きなように食べてね」
席に戻った皇后陛下は、頬に手をあて穏やかに笑む。
「娘と一緒にドレスを選んだり、甘いお菓子を楽しむことが夢だったの。ルベルトは、ちっとも興味がなくて。付き合ってくれると嬉しいわ」
(……なんだか皇后陛下の前では、幼子のような心地になってしまうわね)
照れに似たくすぐったさを自覚しながらも、悪い気分ではない。
("親に愛される子供"とは、こういった気分なのかしら)
「光栄ですわ。ぜひ、ご一緒させてください」
***
(それなりに強くなったつもりだったけれど、簡単にはいかないものね)
暗闇のなか寝台に横たわり、伸ばした手の先で弄ぶ鍵が月明りを反射する。
と、静寂を震わせる、労わるような低い声。
「――まだ起きていたのか」
「……おかりなさい、リューネ」
"聖女の巫女"として洗礼を受けたことで、私の"聖なる力"はより強さを増したらしい。
おかげで私から離れての活動が可能となったリューネは、こうして一人、精霊たちの様子を見に行くことが増えた。
私の手の内にある鍵をちらりと見て、隣に寝そべる。
「どこかに捨て置いてくるか。失くしたことにしてしまえば、そなたも悩む必要はなくなるだろう」
「それは困るわ。一時の苦痛を避けるために手放したら、必ず後悔するでしょうから」
「後悔すると結論が出ているのなら、何を悩む?」
「……真実を知ってしまったなら、夢見ることも叶わなくなるでしょう?」
リューネの柔らかな毛をゆっくりと撫でながら、私の内に隠れてしまった微かな眠気を探る。
皇后陛下を疑うわけではないけれど、私はまだこの鍵を使えずにいる。
だってもしもこの鍵が、お母様の静かな"復讐"だったら?
私を愛してくれていたのだと期待して、そうではないと。
心底恨んでいたのだと突き付けられたらと考えるだけで、怖い。
(私はお母様を知らなすぎるもの)
私が産まれ、お母様が息を引き取った後、お父様はお母様に関するあらゆる物をお母様の私室に隠してしまった。
使用人にもお母様の話題を禁止し、覚えていないほど幼い頃の私に、繰り返し告げた。
この家から母親を奪ったのはお前自身なのだから、母親を恋しがることは許さない、と――。
(その気になれば調べる方法なんていくらでもあったのに、やらなかったのは私が避けていたからだわ)
一度目でも、二度目の今でも。
(それでも……いつまでも逃げているだけでは駄目ね)
お母様が、胎内の私が"聖女の巫女"だと知っていたということも、私を産んだら命を失うことも知っていたという話も気になるし。
ルベルト殿下と結婚したら、この家に来ることも簡単ではなくなる。
いい加減、心を決める時ね。
「――お兄様、お願いがありますの」
翌日、執務室の扉を叩いた私に、オルガは手を止め「どうしたんだ? ミーシャ」と嬉し気に笑む。
名実共に当主となってからのオルガは、ますます貫禄がついてきたように感じる。
それでも私に向ける笑顔は、相変わらず屈託のない輝きを放っている。
だから彼は、許してくれるはず。
私は密かに指先をくっと握り込め、
「お母様のお部屋への入出許可を、いただけますか」
「!」
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