人の四分の一しか寿命が無いらしい
朝起きて、欠伸しながら、自分の身体についた切り傷はなんなんだろう、と考えつつ、口から赤茶色の自分の毛を吐き出し、ウトウトとトボトボと涼しい部屋に移る。
パチクリ、瞬きをするが、今見た世界は現実の様で、空き巣を疑った。台所が荒れに荒れていたのだ。水が入っていた瓶は倒れており、椅子も倒れている。机の上の花瓶も地面の上で割れていた。
足音を聞いて、あたふたと、振り返り、部屋を見渡し、振り返る。
これ、やばくないか。いや、やばいな。どうする、どうしよ。
解決策は思いつかない。
「なにこれ……」
予想通り、僕は悲鳴と怒号を聞いた。
僕はやっていないのに。言い訳の言葉なんて出るはずもなかった。
「あっ、ちょっ、何処行くの‼︎」
言葉を話せず、文字も書けない僕は、聞き流し、背を向けた。その日、僕は旅に出た。自分が猫である事を恨み、哀れみ、挨拶はしないまま、木製の塀に飛び乗り、飛び降り、家を後にした。
「猫の助、待ちなさい!」
昨晩は、縁側で、どうして人間は酒を飲むのだろうか、そんな疑問を抱いていた気がする。寝転びながら、鈴虫の鳴き声を聞いて、時たま身体を左右に揺らして、ご主人……あいつに貰った首の鈴を、首に着いているから利用して、鳴らして、コロコロ言っていた。
そういえば、鈴虫の声を聞いて、腹が減ってきたんだった。だけど、生き物を殺してまで食べない、って決めているから、台所に行って、さっき割れてた瓶の水を飲んだ。その後は、縁側に戻って、月を眺めて、耽っていた気がする。
月が天国だったらいいな。もしそうなら、僕も見ることが出来るし、お互い見ていたら、彼と目が合うかもしれないし。
そんな事を考えていた気がする。もう一つ考えていた気もする。うん、そうだ。
酔って帰って来たご主人に抱かれて、モフモフされて、身体の匂いを吸われた後、どうして、人間は酒を飲むのだろう、とか、どうして、モフモフしてくるのだろう、なんて考えていた。
ふと気が付くと、無意識にトンボを追いかけていた。唾を飲み込み、早く何処かへ行ってしまえ、と鳴き声を上げて、目を逸らす。本能への嫌悪と、罪悪感を抱きながら、涎を飲み込んだ。
どうすれば無実を証明出来るだろう、どうすれば許してもらえるだろう、悩み天を仰ぎ歩く。家出の旅を続けた。
だけど、後悔する。家出なんて、やめておけば良かった。そうすれば、こんなにも絶望する事は無かった。
自分だけが先に死ぬ。世界はそれでも動くんだ。死んだ後に何かを残したいものがあるなら、それでもいいかもしれない。だけど、大抵の場合不幸だけが残る。だから、みんなお葬式で泣くんだ。慕われていた人が死んだ時だけの話だけど、みんな泣くんだ。
小さなバス停の木椅子の上で雨宿りをしていた。眺める先の曇天は、昔を思い出させた。
「食うかい?」野良だった頃、毎日、スルメをくれるオッサンがいた。僕は人間にとってのゴミを漁るのは嫌いだったので、毎日々々彼の家の前を通っては鳴いた。雨の日も、雪の日も鳴いた。だけど、彼はいよいよ最後まで僕を飼ってはくれなかった。
「今日はいい日だ。なぁ?」片手に安くて美味いらしい酒を握った彼と、公園の祭りで行われた小さな花火を眺めた。胸が躍った。だけど、それが彼との最後の日になった。
数日後から、彼の家に人が出入りし始めた。彼は自殺したらしい。彼等の話を聞いて、そう知った。
彼は僕にとっては良い人だった。だけど、誰もが彼を否定した。
「借金残して自殺とか、死んだ後も苦しんで死ね。地獄に落ちやがれ馬鹿ジジイが」そんな言葉を毎日、彼の家の側で聞いていた。
彼の演奏するハーモニカに合わせて首を振ったのは楽しかった、涼しい道を探すだけの僕の散歩について来てくれたのは嬉しかった、そんな記憶も否定された気がした。
僕は否定を認められなかった。
本当は彼等の中にも、彼を肯定して悲しむ気持ちはあるんだ。だけど、それよりも今が大変で心に余裕がないから、大きな怒りに任せて、その感情ばかりが口から出てしまうだけなんだ。
僕はその時まだ子供で、本気でそう思って、彼等の分も泣くつもりで泣き、あしらわれ、その日、僕は自殺という概念に囚われ、それを救いだと信じて、車の前に飛び出した。だけど、死ねず、彼と出会った。
雨は止んでいた。僕は、足を雨水で濡らして、お尻を拭き拭きし、旅を続けた。
衝撃を超えた驚きを覚えた、あの瞬間を鮮明に思い出していた。
「月とスッポン、いいえ、羊毛と吐いた毛玉よ。自分の価値を分かって私に告白したの? 鏡でも見直してらっしゃい」
ヤケクソに告白した僕は、ボロクソに振られた言葉を思い出しながら、道路沿いをドボドボ歩いていた。
信号を眺める。道路を眺める。車を眺める。過去を眺める。
「染みるけど我慢しなさい」そう言って、彼は、抵抗する僕を風呂に入れた。優しく声をかけられたからだろうか、驚きから危機感を感じたからだろうか、僕は、いつしか抵抗をやめていた。
「痛いでしょ。どうして、あんな所にいたの?」そう言う彼と一緒に浴槽に入る頃には、彼を彼と思わずにいた。
二つ驚いたことがあった。一つは、身体が切り刻まれた様に赤くなっていた事、もう一つは、彼が短髪の彼女であった事だ。
彼女は僕の事を丁寧に拭き、萎んだ僕を見て、ぶちゃいくね、と一言。僕を抱いて、縁側に行き、座り、膝に乗せ、話を聞かせた。
「本当はね、私死のうと思ってたんだよね」
彼女は失恋をした様だった。その時の僕には、人間の恋愛という本能に反した価値観は理解出来ず、ただ月を眺めていた。
「私は所詮お遊び相手で、第三候補のただのストックだったの。逆に凄くない? 凄いんだよ。普通は、ここまでの屑捕まえれないんだよ」彼女は、涙を浮かべて、笑いながら、墓場で語る様に僕に語りかけた。
彼を問いただしたのは間違いだったのかな、何度かそう言っていた。
失恋して、髪を切って、友達と遊びに行って、だけど、その友達が第一候補だったらしく、それを知って、全部を清算したくなったらしい。
「君は私の救世主なんだよ。スーパーニャンコ。分かる?」そう言い、僕を抱き上げると、目を見つめて来て、
「猫ちゃんには難しいか」
と言った。僕には、その方が良い、と言ってる様に思えた。
青信号を見ても、足を進めていなかった。ご主人の含羞む顔を思い出し、今朝短髪だったご主人の怒る顔を思い出し、孤独の無味無臭が続く感覚を思い出していた。
彼女とは、もう会えない気がした。
大切な人みんなが僕を置いていく。僕の方が先に死ぬはずなのに。ああ、命が嫌いになりそうだ。心が嫌いになりそうだ。苦しいな。嫌だな。
足に何かが刺さった気がした。踏み込む。前へ進む。家に向かって走り続けた。
人は、当たり前のことが幸せだった、と失って初めて気付く、という。だけど、当たり前が崩れることが不幸だった、と崩れて初めて気付く、とは言わない。
雷が鳴り光る中、僕は、また外へ飛び出した。雨に濡れて、息を切らして、水溜りを踏んだ。家の周りを走り回る。彼女と出会った川付近のあの道路へ向かった。
辺りを見渡す。何度も見渡す。
だけど、彼女は見つからなかった。何処にいるのか、思い付きもしない。
自分は何も知らない馬鹿だ、馬鹿で愚かだ、だから失うんだ。準備も何もしていない馬鹿だから、そりゃ失うだろう。自業自得だ。
俯き、重い足をどうにか動かし、家へ向かっていた。
道中、親と子二匹の烏達を見かけた。雨の中、ゴミ袋を漁り、生きようとする彼女達を呆然と眺め、足を止めていた。
誰かに好かれる幸せは、短命の人だけが得られるんじゃないか。今の僕には絶望への階段にしか見えない。
昔に娘を事故で亡くした、そんな話をオッサンから聞いた事を思い出した。彼はこうも言っていた、その話を言うとね、みんな僕を不幸者だ、可哀想だというんだ。けれどね、今は幸せかもしれないだろ、とはそりゃ言えないね。
烏達を自分と同レベルの不幸者の様に眺めていた自分の価値観の狭さに溜息を吐き、歩き出した。
彼女達も幸せかもしれないだろう。
ご主人の事を考えるのをやめたくなって、誤魔化していた。遠い夢でも見ている様な気分で、何かが弾けた散った感覚も得て、半狂乱の様に走っていた。
家に帰ると、ご主人が当前の様にいた。ただの休日出勤だったらしい。
怒りは湧かず、安堵はした。人騒がせな奴だ、と思った。
彼女はやっと台所の片付けが終わったらしく、僕を睨んだ。
「まぁいいや」
ご主人はそう言って、瓶に『焼酎』を継ぎ足した。
パチクリ、瓶を眺めた。昨日飲んだ水が入っていた瓶を眺めていた。僕はその安くて美味しいらしい『焼酎』の文字を知っていた。
仕方がない、モフらせてやるか。お前は幸せだな、と言わせてやって、誰かを幸せにしたという幸福感を与えさせてやるか。
僕は罪悪感を封殺して、背中を向けた。今日はいつもの倍の九時間も起きたのだから、とても眠たい。今は眠りたい。
「お前だけだよ、私を癒してくれるのは。私はお前だけがいればもういい」昔、彼女の放った言葉は考えない様に眠りたい。彼女の腕の中で温もりを感じながら、眠りたい。
これは美化した話でもなく、自慢でもない後日談なのだけど、僕が告白した彼女は本当は、僕の事を好いてくれていたらしい。だけど、彼女は僕の事が好きな妹と僕を引っ付ける為に、僕を振り、心を追ろうとしたらしい。今はどちらとも付き合っていないのだけど、どちらとも会っている。
人間の様な関係は難しいな、と思った。