129話 穏やかな感情
邪龍が青空を飛んでいた。その背には女神が座っていた。ふたりはどこまでも続く空を進み続ける。すると途中で女神が不意に言葉を発した。
「待って、ここで降りて」
「なぜだ?」
「いいからいいから」
女神は背中の上でせかように邪龍の背中をバンバンと叩く。邪龍は仕方なく己の翼を大きく広げて速度を落とし、大地に着陸することにした。
「……海か」
着陸すると、黒龍の目の前には一面の大海原が広がっていた。見る人にとっては感動的な光景、あるいは感傷的にもなる光景なのかもしれない。だが、邪龍にとってそれはただの一つの風景に過ぎなかった。故に彼の目に映るそれは"海"以外の何でもなく、大して言葉にできるほどの感想すらも無かった。
「ふふん♪」
虚ろな眼差しで海を見つめる彼とは正反対に、女神は嬉しそうに浜辺で海を眺めていた。時々目を閉じてはさざ波の音に意識を傾けていたりもしている。
しかしそれ以上、女神は他に何かするわけでも無い様子だった。
「なぜだ?」
邪龍は問うた。
「どうしたの?」
「なぜこんな場所にわざわざ立ち寄らせたんだと聞いているんだ」
邪龍は呆れていた。分からなかった。こんなことに意味など無い。己にはやらねばならないことがある。残るイーター共を皆殺しにして過去の過ちを清算しなくてはならない。そしてそれは彼女も同じこと。彼女にもやらねばならないことが山ほどある。このような場所で本来油を売っている場合ではないはずなのだ。
「あなたって……海は見たことある?」
女神は突然邪龍に尋ねた。質問に質問で返すなと言いたいところだったが、邪龍は素直に答えておくことにした。
「当たり前だろうが。この地の海などもう何度も見ている。忘れたか
? お前の眷属の一人だった大海神之命は俺がこの海で殺したんだぞ」
「知ってる。でも私が聞きたかったのはそういう事じゃないんだよね」
「どういうことだ?」
邪龍が振り向くと、女神はにこりと微笑む。
「こうして穏やかな気持ちで誰かと海を見たことはあるかなってこと」
ますます理解できない。それの何処になんの意味があるというのか。
「ないな。だがそれには価値がない。無駄な行為だ」
邪龍は思っていたことをそのまま告げる。他に用がないならもう行くぞと言わんばかリに翼を広げ、飛び立つ旨を女神に伝える。
「……だめ、まって」
「次の場所までゆっくり飛んで30秒程度だ。これ以上待つなら3秒で飛ぶことになる」
邪龍が説明すると、女神はあからさまに不機嫌な顔になる。早い速度で飛ばれるのが女神は嫌いだったからだ。
「少しくらいいいじゃん」
「ダメだ」
「もう少しだけ」
「ダメだ」
「あとちょ……」
「ダメだ」
「…………」
そこまで言うと、女神は遂に黙り込んでしまう。やっと諦めてくれたのかと邪龍は安堵の息をついて女神に背を向ける。そして女神がその背に乗ってくれるのを待っていた。待っていたのだが……後ろから聞こえたのは、ばたりと倒れる音。
「は?」
邪龍は思わず振り返る。そこには仰向けに寝そべる女神のだらしない姿があった。
「やだ」
「は?」
「ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダ!」
「は?」
「イ・ヤ・ダ!」
「……は?」
だらしないなんてものではなかった。まるで幼い人間の子供のように女神は駄々をこね始めてしまった。
「…………」
邪龍は言葉を失った。そして思う。これがこの世で最もと尊き存在である女神エレウテリアの姿なのか、と。このような姿が人間たちの目に留まってしまっては大変だ。人類からの信頼が失われ、世界の秩序が乱れてしまう可能性さえあり得る。
「ガキか。お前がこれではお前を信仰している人間どもに示しがつかんぞ」
「大丈夫、それよりもあなたこそ急ぎすぎ。急いては事を仕損じるんだから、もっと気楽にしてた方がいいと思うよ」
女神は体をゆっくりと起こす。先ほどまでの気の抜けた表情とは一変して別人のような真剣な表情だった。途端に雰囲気が変わるため、邪龍も少したじろいでしまう。
「だがそれでは……」
「あなたの気持ちもなんとなく理解してる。きっと罪滅ぼしの念にとらわれているんだろうなって。でもね、焦る必要なんてない」
穏やかな声で、優しい瞳で、女神は邪龍に語り掛ける。
「あなたはイーターたちから早く人々を守らなければと思っているのかもしれないけど、それって凄く杞憂。だってそうでしょ、意識が解放される前のあなたとずっと戦ったのは誰だと思ってる? 私と、他でもないこの世界に生きる人々たちだよ。あの時に比べたら今はまだまだ全然大丈夫くらい」
「……うーむ」
邪龍は考える。確かに今はかなり落ち着いた状況。まだまだイーターたちはこの地にやって来るが、それでも人類には余力がある。どこか勝手に自分を追いこもうとしている自分がいたのかもしれない。それは事実だと邪龍は思った。
「それにさ、私はあなたと今この穏やかな時を大事にしていたいと思う」
考え込む邪龍に女神は言葉を付け加える。
「今この時を、か……?」
「そう」
女神はこくりと頷いた。
「私はあなたにもっと世界の事を知ってほしい。世界は争いだけじゃないんだって。世界はあらゆるもので可能性で満ちてる。その一つ一つに耳を傾けて欲しい。私たちがいつまで一緒にいられるかも分からない、だからあなたに私の知ってる全てを体感してほしい」
「何をバカなことを……」
女神の言葉に呆れつつも、彼女が眺めている海を邪龍も眺めてみることにする。だがやはり彼にとって目の前の光景はただの海でしかなかった。特に何かを感じることもない。
邪龍が堅苦しく首を傾げていると、女神はその様子を見てフフっと笑っていた。
「今はまだ分からなくてもいい。けどいつかあなたにも分かる日が来る」
「それはいつだ?」
「いつか……だよ」
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何故今になってこんなことを思い出してしまったのだろうか。水平線の彼方へ目を細めて眺める彼女の横顔が鮮明に浮かんでくる。
「ソティア見てみて! ヒトデ!」
「は、初めて見た……」
「あ、あっちにも何かいるわよ!」
「ま、待って……! ネオン……!」
「やれやれ、騒がしいですね。海ならやはり釣りをするべきでしょう」
「何であんたそんなもの持ってるのよ!?」
「つ、釣り……!」
海辺で無邪気にはしゃぐ少女たちを見て、カフィーはふと何かに気づく。心の中で生まれた、どこか安心する温かい落ち着いた感情。
〈そうか……たまにはこういうのも、悪くはないな〉
「おーーーい」
ソティアたちが海で遊び始めてから二時間ほどが過ぎた頃だっただろうか。ララが坂の上から手を振ってこちら側に呼び掛けている。
「修理が終わったぞー」
ララの背後には獣車が車輪が外れる前の姿のままで用意されていた。
いつでも出発が可能な状態である。
「少し名残惜しいですが、行きましょうか」
「そうね。はー、久しぶりに遊んだ気がするわ」
気晴らしが出来てご満悦のネオンとサントリナは、身体を伸ばしつつ獣車へと戻っていく。
「ねぇ、カフィー……」
そんな時、二人を後ろから眺めていたソティアが小さな声でカフィーだけに囁いてきた。
〈なんだ?〉
「その……ありがとう」
〈何のことだ? 知らんな〉
それ以上ソティアは特に何も追求はしなかった。しかし、どこか嬉しそうにしていることにカフィーは少し気恥ずかしさを覚えてしまうのだった。
修理が完了した獣車は4人を乗せて再び走り出す。この海道を乗り越えればユウエン国はすぐそこである。