6 悲劇的-8-
彼は来た道を引き返した。
もう逃げて生き延びようなどとは考えていなかった。
それを提案したソーマはもういない。
知らない場所で、たったひとりで生きていく気力は彼にはない。
だからこの少年は来たときと全く同じ道をたどって、自宅があった場所に戻ってきた。
一切のものが瓦礫に成り果てた今、拠となるのはたったのひとつ――。
「母さん…………」
青白い頬を撫でながらシェイドは囁いた。
「ソーマが……死んじゃったんだ…………」
聞く者のいない語りは、虚しい独り言でしかない。
「ヘン、だよね……みんな……みんな、いなくなっちゃった……」
彼は笑った。
これは夢だ。
痛みや熱さを感じる、いつもとはちがう特別な夢を見ているのだ。
目を覚ますと、悪い夢でも見ていたのね、魘されていたわよ、と母が背中を撫でてくれるのだ。
彼はまだそんなことを考えていた。
「母さんも……そう、思う、よね……?」
そう言い、灰をかぶった髪を指で梳かそうとした。
だが、飛び散ったらしい血液が凝固していて指は通らなかった。
シェイドは返事を待った。
風の音にも耳を欹てた。
母がどれだけ小さな声で答えても聞き逃さないように。
ほんの少しでも体を動かしたら、その音を聞き洩らさないように。
それは無駄だった。
「母さん……母さん! 母さん!」
瓦礫に埋もれた彼女は何の反応も返さない。
「なんでだよ! なんで死ぬの! なんで僕だけ生きてるの!」
彼は再び何も分からなくなった。
“死”については認識できたが、今度は“生”が何であるかが分からなくなっていた。
自分がなぜ生きているのか、なぜ死んでいないのか――。
答えが得られるハズがない。
それを教えてくれる彼女はもういない。
手がかりを与えてくれる幼馴染ももういない。
さまざまな感情と思考と想いとで、彼の頭の中はぐちゃぐちゃになった。
教え導いてくれる人はいないから、これから先は全て彼自身が決めなければならない。
生きるのか、それとも死ぬのか。
生きるのなら、どこへ行き、何をして、どう生きるのか。
石を掘り当て、母の作った衣服を売りに行くだけの日々を繰り返していたシェイドには、それ以外の生き方を考えることさえできない。
(どうしてこんなことに……)
独りでは何ひとつ考えられない、決められない自分を彼は呪った。
母のような聡明さ、ソーマのようなしたたかさがあれば……と、持っていないものを欲しがった。
(どうして…………? そうだ……そうなんだ!)
もどかしさは苛立ちに転じ、それはいつの間にか漠然とした怒りに変わっていた。
(なんで僕たちがこんな目に遭わなくちゃいけないんだ!)
これは疑問ではない。
「僕は何もしてない。誰も何もしてない。なのに、どうして!?」
少年は怒ることを覚えた。
「誰も悪くないのに…………!」
芽生えたのは――。
世の中の理不尽に対して、不条理に対しての。
唯一の肉親と幼馴染と、自分が大切にしてきたあらゆるものを奪われたことへの――。
――明確な憎悪だった。
「誰も――」
呟いた瞬間、空が光った。
直後に爆音が響き、地面が揺れる。
シェイドはゆっくりと顔を上げ、それを見た。
上空に静止していた艦が、北の洞窟に向けて砲撃したのだ。
一時は収まっていた攻撃が再開されたか、その方角にいた生存者が発見されたか。
それはシェイドには分からない。
分かる必要はない。
ただ、それが彼にキッカケを与えた。
「………………」
彼はもう一度だけ母の顔を見つめた後、ゆらりと立ちあがった。
足の傷は彼も気付かないうちに治していた。
深呼吸をひとつして天を仰ぎ、そこにある唯一の人工物を凝視する。
自分が大切にしていたものを悉く奪った艦を。
彼は憎悪した。
シェイドの目の前に巨大な光の環が出現した。
両手をいっぱいに広げてもまだ足りないほどの、アメジスト色の輝きだ。
それはシェイドの鼓動に合わせて小さく明滅を繰り返す。
彼の全身から抜け出るように光の粒子が大気に放たれ、環の中に吸い込まれていく。
「うああああああッッ!」
昂ぶった感情を吐き出さんとシェイドは叫んだ。
あの艦をこれまで葬ってきたドールのように粉砕しても、この憎悪はとうてい収まらない。
環は一際激しく輝いた。
今度は彼の感情に耳を傾けるように、叫びに応えるように眩く、巨大な光の塊となった。
(許さない……誰も彼も……! 僕たちを苦しめた奴ら! 奴ら……!)
血走った眼は光環の向こうに艦を捉えている。
できることならばこの手で紙屑のように握り潰してやりたいと思った。
襤褸布のように引き裂いてやりたいと思った。
「うああああああッッッ!!」
光環が2倍にも3倍にも膨れ上がり、プラトウに張り付く巨大な目のようになった。
艦はようやく地上での異変に気付き、艦体を旋回させつつ砲塔をシェイドに向けた。
彼らには町の一部が光っているようにしか見えていないが、プラトウの全てを焼き払えという命令を受けているから、光の出所も攻撃対象としなければならない。
だから艦は撃った。
命令のとおりに。
しかし完遂はできなかった。
燃えるような赤い光弾が地上めがけて叩きつけられる。
着弾と同時に光と熱を発散し、地表を震撼させるハズだった。
だが光環がそれを無意味にした。
光弾は環の表面で炸裂したが、発生するべき光も熱も衝撃さえも、粒子に変換されて環の中に溶けて消えた。
わずかに受け止めきれなかった爆風がシェイドの足元の砂をいくらか巻き上げる。
彼の激情はいよいよ頂点に達した。
両手を伸ばし、光環を支えるように突き出す。
「消えてしまえ! 何もかも消えてしまえッ!」
輝きが唸り声を上げた。
直後、光環を突き破るようにして、轟音とともにアメジスト色の巨大な炎が現れた。
それは渦を巻きながら一束になって天へと昇っていく。
光環からは無際限に炎が噴き出し、大炎はさらにその勢いを増した。
渦は空高く、艦よりも高く上昇するとそこで一瞬動きを止め、プラトウを囲むように弧を描いていく。
それは燃え盛るドラゴンだった。
牙も爪も翼も、何ひとつ持たないドラゴンだった。
艦が再びシェイドを狙って光弾を撃った。
だがそれは彼に届く前にアメジスト色のドラゴンに呑み込まれて大炎の一部になった。
炎は凄まじい速度で天を翔け、空を光で染め上げた。
「ぐ、うう…………!」
両手に熱を感じながら、シェイドは強く念じた。
ドラゴンは彼の思いどおりに動かない。
周囲の空気を取り込みながら煌々と光り輝くそれは、プラトウの空を跋扈し続ける。
艦は標的を見失ったように、手当たり次第に攻撃した。
無数の光弾は炎の渦に吸い込まれて消える。
地上に着弾した数発も、その威力はシェイドにまでは及ばない。
炎の渦はなおも空を飛び続けた。
指先に力を込めようと、言うことを聞けと念じようと、この巨大な怪物は自らの意思にのみ従うように、悠々と天を泳ぎ回った。
ドラゴンは真っ直ぐに伸び上がった後、雲の近くでとぐろを巻いてから急降下した。
地響きのような音を立てながら地上を舐めるように這い、その勢いのまま山を登攀する。
ドラゴンが通った後の地表は一瞬だけアメジスト色に輝いた。
だがすぐに光は失せ、高熱に熔かされた地肌が露わになる。
岩石も樹木も、砂の一粒さえ残りはしなかった。
まるで初めからそこに何もなかったように、半円状に抉られた大地だけが痛々しくあるのみだ。
ドラゴンはプラトウのあらゆる場所にその姿を晒し、ついには空に蓋をしてしまった。
憎悪の中に、まだほんの少しだけ意識を残していた彼は、頭の中でそれに語りかけた。
僕の思うとおりになれ。
真っ直ぐに飛び、艦を焼け、と。
シェイドは全身の力を光環に込めた。
自分の中にある何もかも――理性、思考、感情、血液の一滴にいたるまで――を捧げるように。
彼はそれしか考えていなかった。
指先に感じていた熱は手首まで伝わり、腕を通り、心臓にまで達した。
彼の感覚は途中で麻痺した。
感じる必要はない。
考えることはひとつしかなかった。
我が物顔で飛び回っていたドラゴンが高度を艦に合わせた。
その高度を保ったまま、今度は艦から離れるように南の空に向かって飛び始めた。
「う、うう……あああああぁぁぁッッッ!」
シェイドが絶叫した。
光環はもはやその輪郭が分からなくなるほど強く輝き、滝のように炎を送り出す。
彼は天を睨んだ。
心臓に達した熱が逆流し、両手に集まる。
全身から光が溢れ、環に吸い込まれていく。
環はさらに輝く。
炎はさらに大きくなる。
左腕の腕輪が音を立てて砕け散った。
ドラゴンは何者かに呼び止められたように動きを止め、頭を左に向けた。
一瞬。
たった一瞬の後。
炎の渦は艦に向かって飛んだ。
巨体をくねらせながら、燃え盛る爬虫類は獲物を見つけ、それを丸呑みにせんと空を走った。
彼らは恐怖した。
とてつもなく巨大なものが真正面から迫ってくる。
ただの炎の塊が、意思を得た動物のように、明らかな敵意と殺意を隠そうともしないで迫ってくる。
24門ある砲塔が鎌首を叩き潰そうと火を噴いた。
プラトウを焦土と化した光弾がアメジストの空に紛れ込む。
だがこれはもはや抵抗にすらならなかった。
進攻を食い止めることも、勢いを削ぐことも、傷をつけることさえも敵わない。
ドラゴンは咆哮した。
空気の振動が目に見える衝撃波となって円環状に広がる。
それが地上に到達し、プラトウの大地を震わせた、そのすぐ後に。
炎の渦が牙のない口を開け、艦を呑み込んだ。
凄まじい光と熱とが艦体を外側から焼いていく。
彼らは自分たちが灼熱に晒されるのを黙って見ていることしかできなかった。
砲塔がひしゃげ、装甲が熔け、センサーは灰にもならずに焼失した。
彼らは艦橋でモニター越しに、あるいは通路や部屋の強化ガラスを通してアメジストの濁流を見た。
生きた隧道のようにうねり、迸る光の波が艦を次々に呑み込んでいく。
「燃える、みんな燃える……」
シェイドはその様を眺めて嗤っていた。
憎悪を纏った炎はついに装甲を食い破り、艦内になだれ込んだ。
最も近くにいた乗員が吸い込まれるようにアメジストの渦に引き寄せられ、瞬きする暇もなく全身を焼かれた。
それを見ていた者たちは恐れ慄き、生を求めて逃げようとしたが、もはやそのような場所は一点も存在しない。
背を向けた者は背を焦がされ、足が竦んで動けなかった者は床を這う炎にその足を掴まれ引きずり込まれた。
艦はその場に留まり続けたまま、気が遠くなるほど長いドラゴンの食道を駆け抜けた。
「こんな……こんなバカな……こんな、ことが……!」
ひとり艦橋に残っていたタークジェイは今になってペルガモンの命令を遂行したことを後悔しようとした。
だがそれを悔いる前に飛び込んできた炎の波が彼を包み込み、ひとかけらの骨も残さずに焼き尽くした。
濁流の中では乗員の断末魔の叫びさえ聞こえない。
誰も何が起きたかを理解できない。
それを見た時、それを理解する頃には彼らは焼かれて溶け、何も残らない。




