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時計塔の下の悲劇(1)

 南校舎と東寮の角に、時刻を知らせる時計塔がある。全校生徒が一度に席につける大きな食堂や図書館、職員室などがある管理棟は、その向こう側の東南に面して、斜めに建てられていた。

 中庭にも、周囲を取り囲む校舎や寮にも、人気はほとんどない。夕食を知らせる鐘が鳴ってからかなり時間が経ってしまったから、みんなとっくに食堂に集まっているのだろう。

 北校舎にいたティルアは薄暗くなった中庭を抜け、食堂へと急いだ。

「相変わらず、うす気味悪いわね」

 ティルアはふと足を止めた。

 この学院の中でいちばん古い建物である時計塔は、紫色の葉脈が走る蔦の葉に鬱蒼と覆われ、藍色に染まった世界に立ちふさがる支配者のようにも見える。白くぼんやりと浮かび上がる文字盤付近に、ちらちらと見える黒い影は蝙蝠だ。

 あまりの不気味さに普段なら迂回することも多いのだが、今日は早く食堂にたどり着きたくて、真っすぐに時計塔に向かう道を進む。そして、塔のすぐ根元に黒い物体が横たわっていることに気付き、ぎくりとなった。

「ひっ……。なに?」

 こわごわながら、それが何であるのかを確認するために目を凝らす。そしてそれが動かないと分かると、ゆっくり数歩近づいてみた。

「フリーデル?」

 顔は見えなかったが、茶色の巻き毛に見覚えがある。

 時計塔の根元にうつぶせで倒れていたのは、ティルアと同じ年にこの学院に入学した、最上級生のフリーデル・プラネルトだった。

「ちょっと、どうしたの? 大丈夫」

 慌てて駆け寄り、彼を助け起こそうとして、掌に生暖かくぬるついた感触を覚えた。ぎょっとなって引いた手は、暗がりの中で黒く染まって見えた。鉄のような臭いが鼻をつく。

 まさか、血——!

「き……きゃあぁぁっ! 誰か、誰か来て! 誰かっ!」

 彼の状態を認識すると同時に、甲高い悲鳴が勝手に喉から飛び出した。

「誰かっ! 誰か助けて−!」

 その声を聞きつけて、管理棟から二人の教師が駆けつけた。

 一人は灰色の髪をひっつめた年配の女性教師、トラレス。もう一人は、ティルアの知らない銀色の髪に片眼鏡をかけたの若い男性教師った。

「おい、君! どうした」

「彼……が、フリーデルが……」

 倒れている男子生徒を震える指で差すと、その不吉な光景にトラレスが悲鳴を上げた。

 男性教師も息を飲んだが、冷静だった。

「あなたたちは、少し離れていてください。……ルーメン

 男性教師は女性二人を腕でかばうようにして少し下がらせると、左手の人差し指の先に光を灯した。右目にかかる片眼鏡の位置を反対の手で調整すると、倒れている生徒にゆっくりと近づいていく。

「フリーデル! フリーデル・プラネルト、何があった! おいっ、しっかりしろ!」 

 おそらく屈み込んだ自分の背中で、無惨な姿を隠してくれているのだろう。教師が呼びかけながら、生徒の身体を強く揺さぶっていることは分かったが、明かりに照らされた彼の顔はティルアからは見えなかった。

 何度か彼の名前の呼んだ後、教師の肩からがっくりと力が抜けた。無念の言葉が続く。

「だめだ。……彼は、もう」

 教師は、夜が迫った空に黒々とそびえ立つ時計塔を振り仰いだ。

「おそらく、あそこから落ちたのだろう」

「そんな……。どうして」

 ティルアも同じ場所を見上げた。

 校舎の屋根よりも高い位置に白く浮かび上がる文字盤の下には、ひと一人が通れる張り出した通路が塔をぐるりと取り囲んでいる。昼間なら眺望を楽しむためにそこに登る生徒もいるが、夕方以降は、薄気味悪い時計塔には、近づく者すらいない。

「来年選ばれる可能性もあるからと、あれほど言ったのに。どうして、こんな早まったことを……」

 男性教師の呟きに、トラレスがはっと顔を上げた。

「リーム先生。まさか、彼は……」

「はっきりとしたことは、まだ分かりません。しかし彼は、魔術統括省の名簿が貼り出された後、ひどく思い詰めた様子で、僕のところに相談に来たんです」

「じゃあ、やっぱり……」

「断定はできませんが、可能性は……」

 彼らはその言葉を口にはしなかったが、何を言わんとしているかは、ティルアにも容易に想像できた。

 自殺——。

『嘘だ! そんなはずがない!』

 しかし、その想像を否定する叫びが背後から聞こえてきた。振り返ると、下ろした両手を震えるほどに握りしめたユーリウスが、すぐ後ろにいた。おそらく、ティルアやトラレスの悲鳴を聞きつけてやってきたのだろう。

「ユー……」

 思わず声の主の名を口にしそうになり、慌てて言葉を飲み込んだ。彼の姿は教師たちには見えていないはずなのだ。

『あいつは、魔術薬学者になりたがっていた。魔術統括省には全く興味がなかったんだ。むしろ、名簿に自分の名前がなかったことにほっとしていたんだよ』

 もちろんその声も、教師たちには聞こえていない。

『それとも、本当は魔術統括省に行きたかったのか? そんな話は聞いてないぞ! どうなんだよ、フリーデル!』

 ユーリウスはつかつかと、変わり果てた姿の同級生に近づいていくと、その前に屈み込んだ。

『フリーデル! おいっ! なに寝てるんだ。起きろよ!』

 触れられない手で彼の身体を揺さぶり、届かない声で必死に呼びかける。けれども、彼が目覚めることは決してない。

 ああ。そうだったんだ……。

 年上の同級生たちに囲まれ、ずば抜けた才能ゆえに孤立し、誰にも心を開くことがないと思われていたユーリウスだったが、ちゃんと友達はいたのだ。きっと、フリーデルはそうだったのだ。

 ティルアの頬に涙が伝った。

 ティルアにとっても、彼は一年生の間、同じクラスで学んだ間柄だ。ティルアには、今のひょろりとした長身の姿より、茶色の巻き毛と人懐っこい瞳が印象的な、幼い頃のイメージが強い。そう言えばあの頃から、薬草だけに特別な感心を示す変わり者だった。確かに、役人を目指すようなタイプではなかった。

 二人の教師は何やら話を続けているようだが、ティルアの耳には入らなかった。涙にかすむ目で、ユーリウスの細かく震える背中を見つめていた。

 だから、いきなりトラレスに腕を掴まれてぎくりとする。

「さ、行きましょう」

「えっ? 待って!」

「だめです。あなたはここにいてはいけません。他の生徒たちも食事が終わり次第、速やかに寮に戻らせます」

「でもっ、彼を放っておけない」

 あんなに辛そうなユーリウスを放っておくことができなくて、つい、そんなことを言ってしまった。しかし、女教師はそれをフリーデルに対しての思いだと勘違いする。

「そう言えば、あなたはフリーデルとは同期生だったわね。気持ちは分かるけど、今は私たちに任せなさい。あなたには、後で詳しい話を聞かせてもらいますからね」

「だけど……」

 どうしても心残りで、強引に腕を引かれながらもユーリウスを振り返る。

『ティルア、行けよ。俺はここに残って調べてみる』

 そう言うと彼は、時計塔の入り口に向かって駆け出した。おそらく、フリーデルが落ちたと思われる、文字盤の下の通路に行ってみるのだろう。

 彼の姿が塔の中に消えると、ティルアは急に心細くなった。一刻も早く、この凄惨な現場から離れたいという気持ちもわき上がってくる。

 ここに残っていても、自分にできることは何もない。彼と教師たちに任せた方がいい。

 そう自分に言い訳して、管理棟に向かって歩き出そうとしたが、足ががくがくと震えて、まともに歩けなかった。

「あぁ……。フリーデル……」

 ティルアは両手で顔を覆った。

 特別親しかった訳ではないが、目の前でのひとの死は、これほどまでに衝撃的だった。薄暗くてよく見えなくても、真紅に染まった悲惨な光景は、脳が簡単に補完してしまう。お守りのネックレスを握りしめても、身体の震えは止まらなかった。

 一年生の頃の、彼のあどけない笑顔が脳裏に甦る。

 魔術薬学者になりたかったという彼の夢が、頭の中でぐるぐると回る。

 そんな彼が、どうして死ななければならなかったんだろう——。

「大丈夫? 歩ける?」

「……はい」

 背中に回された教師の手に支えられながら、ティルアはのろのろと管理棟に向かった。

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