(4)
が、しかし。
ユーリウスが勝手に定めた三日の期日は、何の進歩もないまま、あっさりと過ぎてしまった。その間に、ティルアの幼い同級生たちは、次々と出現呪文を修得していった。
この日の放課後も、もうかれこれ二時間ほど、誰もいなくなった教室で消去呪文の練習をしていた。
窓から差し込む光は温かな色に染まっている。そろそろ夕食の鐘が鳴る頃だろう。
『これだけやってるんだから、一度ぐらい、成功したっていいんじゃないか?』
すぐ後ろから、ユーリウスの冷ややかな声が聞こえてくる。
「うるさいわよ。邪魔しないで。…………デイレ!」
机の上に置かれた小さな白い羽は、やはり、その場から消えることはなかった。
大げさなため息が聞こえてきて、鬱陶しいことこの上ない。
『過去にどれほどの羽が、この場所で消されたと思ってるんだ。羽布団が何十枚も作れるほどだぞ。それくらい簡単な魔術なのに、なんであんたにはできないんだよ!』
彼によれば、この教室の床には大量の鳥の羽が、彼の臑の高さまで積もっているのだという。この学院ができてから百数十年分の、歴代の一年生たちが消去呪文を練習し、成功させてきた証拠なのだ。
イライラが頂点に達したユーリウスは、足元の空間を両手でわしづかみにすると、天井に向かって投げ上げた。
ティルアには見えないが、彼の怒りとは裏腹に、色とりどりの羽毛が宙を舞うメルヘンチックな光景になっているはずだ。それを想像するとおかしくなってきて、思わず吹き出してしまう。
『何がおかしいんだ! 真面目にやれよ!』
「はいはい。分かったから、ちょっと静かにしてて」
今はつい笑ってしまったが、ふざけても、手を抜いてもいない。彼を消去してしまった責任を感じて、かつてないほど真剣に魔術に取り組んでいる。それでも、できないものはできない。それだけだ。
気を取り直し、目を閉じて、ゆっくりと長い息を吐く。
「デイレ!」
呪文を叫んだ直後、ポンと音がして白い羽を紫色の炎が包み込んだ。そして、あっという間に鎮火すると、机の上に黒い細かな燃えかすが散らばった。
微かに漂う焦げた臭い。
「あはは……。消えたわよ?」
これはもう、笑ってごまかすしかない。
『違うだろ! なんでこうなるんだ! だいたい、今の炎は発火呪文とも違う。一体、何の呪文を使ったんだよ。訳の分からないところは、ホント、百年に一人の逸材だよな。……ったく、忌々しい』
ユーリウスはぶつぶつと嫌みを言いながら、足元を右の掌ですくいあげた。
『こんな簡単な呪文ができないなんて……。デイレ』
呪文を唱えることで何が起きるかなど、ユーリウスは考えていなかった。ただ、普段と同じ感覚で、そこらのごみをひょいと捨てるように呪文を呟く。
その瞬間——。
掌に乗せていた羽たちが、一斉に手をすり抜けた。
『え……?』
「わっ!」
ティルアの目に映ったのは、彼の手の甲の下に、突然出現したたくさんの羽。それらは、くるくると舞いながら、教室の床へと降っていく。
「え? なにこれ?」
ティルアは足元から、鮮やかな黄色い羽を一枚摘まみ上げた。
彼が床から羽をすくいあげたことは、見えなくても想像できていた。今、床に散らばった色とりどりの羽は、さっきまで彼の掌の上にあった、見えない羽に違いない。
「もしかして、出現呪文を使ったの?」
『違う。さっき俺が使ったのは、消去呪文だ』
「消去……?」
『ということは、もしかしたら……?』
しばらく腕を組んで考え込んでいたユーリウスが、にやりと笑った。そして、ティルアが摘んでいる黄色い羽を指差す。
『出現!』
「あ……」
今度は、ティルアの視界から黄色の羽が消えた。
「どうなってるの? 消去呪文で現れて、出現呪文で消えるなんて」
『おかしいことはないさ。あんたから見たら逆に感じるかもしれないけど、俺から見たら呪文は正しく作動している』
「どういうこと?」
『おそらく、俺とあんたがいるのは、同じ場所の表と裏のような世界なんだろう。あんたの側で消去したものは、俺の側に来る。そして、こっち側で消去したものは、そっちに移る。見てろよ……デイレ!』
ユーリウスが呪文を唱えると、ティルアの足元に大量の羽がぶわりと出現した。
「うわ、すごい!」
『どうだ。どれくらい、そっち側に行った?』
「どれくらい……って、ユーリからは見えないの?」
『こっちは臑まで羽に埋もれてるんだ。どれくらい消去できたか、見えないんだよ』
「はあ……なるほど。じゃあ、こうすれば見える?」
ティルアは屈み込み、足元の羽の山をかき集めて机の上に移動させた。
『それで全部か?』
「うん」
『くそっ。結構魔力を込めたつもりだったのに、全然たいしたことないな』
机に置かれた、軽く百枚以上ある羽を前に、彼はやけに悔しそうな顔をした。
とはいえ、一度にこれだけの羽を消去できれば、たいしたものだ。さすが、十年に一人の逸材と呼ばれるだけのことはある。
しかしこの百枚の羽は、簡単だとされる消去呪文の限界を、如実に示していた。彼は以前、自分の消去能力を「林檎三分の二」と言っていたが、彼の学院一と言われる魔力をもってしても、この程度しか消去できないのだ。
「ねぇ、この羽って、もともとは他人が消去したものなんでしょ?」
『ああ。他人が消去したものでも、こっちから消去し直せば、元に戻せるようだな』
「じゃあさ、そっちから誰かに消去してもらえば、あたしじゃなくても、ユーリを元に戻せるんじゃない?」
『理論的にはそうだな。だけど、こっち側に俺以外の誰がいるっていうんだよ!』
「……あ」
『あ、じゃないよ! だいたい、ひと一人消すことだって常識的には無理なんだ。俺を元に戻せる可能性があるのは、あんただけだ。あんたがそっち側から俺を出現させるしかないんだよ!』
一瞬、希望の光が見えた気がしたが、幻ですらなかったらしい。
ティルアは小さく息をつくと椅子に戻った。