(3)
『それだ! やっぱり、あんたがっ!』
彼は勢い良く膝立ちになると、両手でティルアの肩に掴み掛かった。しかし、その手はティルアの肩を突き抜け、勢い余って倒れ込んでくる。
『うわぁっ!』
「あぶないっ!」
彼を支えようと伸ばしたティルアの手も彼の身体を突き抜け、捕らえることなどできない。幼さを僅かに残した綺麗な顔が、大写しでティルアに迫ってくる。
「きゃぁぁぁっ!」
彼と鼻と鼻が触れる瞬間、ティルアはぎゅっと目を閉じ身体を強ばらせた。しかし、やはり衝撃も痛みも何も感じなかった。ただ、心臓だけがばくばくと焦っていた。
そおっと目を開いてみると、尻もちをついた自分のお腹から、彼の腰から下が突き出していた。
「ひゃあ!」
奇妙を通り越し、あまりにも不気味な光景だ。
慌てて飛び退くと、自分のいた場所に、ユーリウスが四つん這いの体勢で俯き、身体をぶるぶると振るわせていた。
『くそ……っ、あんたのせいだ。あんたが俺に消去呪文をかけたんだ!』
きっと振り返った緑の瞳の端にはじわりと水が溜まり、屈辱とも憎しみともつかぬ目で睨んでくる。
『俺になんの恨みがあるんだよ! さっさと元に戻せ! さぁ、早く!』
「だから、落ちこぼれのあたしが犯人のはずがないでしょ。だいたい、消去呪文で消せるのは、林檎サイズが最大だし、命のあるものは消せないのよ。そんな基本的なこと、十歳の一年生だって知ってるわ。消去呪文のはずがないじゃない!」
『いいや、これは消去呪文だ! 間違いない!』
「なんでそう言い切れるのよ」
掴み掛からんばかりの勢いだが、さすがに懲りたのか手を出さずに主張する彼に、ティルアは問い返した。すると、彼はぐるりとあたりを見回した。
『こうやって見渡してみると、いつもの学院の風景が見える。でも、地面にいろんなものが散らばっていて、やけにごみだらけなんだ』
「ごみだらけ……?」
ティルアも同じように辺りを見渡してみたが、目に映るのは、冬の間に色あせてしまった芝生に十字に走る石畳の小道。四角に刈り込まれた庭木と、新しい苗が植えられたばかりの花壇。普段と何も変わらない春の初めの中庭だ。
「ごみなんか、どこにも落ちていないけど?」
『あんたに見えないだけだ』
そう言いながら、彼は右手の親指と人差し指で何かを拾い上げた。
『これは、キャンディの包み紙……それから』
ティルアには見えないそれをぽいと捨てては、次々に何かを拾う動作をする。
『これは一年生が消去呪文の練習に使う鳥の羽。メモ書きした紙の切れ端。オレンジの皮。この丸められた紙は……成績表? ひどい点だな』
「そんなものが、落ちているの?」
『そうだ。ここでは、ちょっとしたごみは消去呪文で消してしまうだろう? こんな、他人に見られたくないものなんかも……な』
彼は誰かの成績表をつまんでいるであろう手を、ひらひらと動かした。
確かに、ティルアと入学直後の新入生を除いたこの学院の人々は、小さなごみはその場で消去している。それは、この学院を快適な場所に保つためのマナーでもあった。試験の答案用紙や成績表を消去することは禁じられているが、それはつまり、そんな証拠隠滅を計る生徒が多いということでもある。
『あとは、林檎の芯。この近くだけでも数えきれないほど落ちている』
最高難易度だとされる林檎の消去は、魔術師の大きな目標の一つ。だから生徒たちは、林檎を一口ずつかじりながら、どの段階で消せるのかを競い合う。この中庭で大会が開かれることもあるから、林檎の芯がたくさん落ちていても不思議はない。
『俺は、そんな消された物が散らばる中にいるんだ。つまり俺も、同じ呪文で消されたということなんだよ!』
「でも、生きた人間を消去できるはずが……って、もしかしてユーリは死んじゃったの?」
『そんな訳あるか!』
「そうよね、亡霊にしては元気が良すぎるもん」
真っ赤な顔で憤慨する彼に、ほっとした。
彼は生きている——多分。とすると、生きている人間を消去するという、二重にありえないことをしでかしたのは誰だろう。
ティルアは眉根を寄せて考え込んだ。
彼が消去されたという同じ時、南校舎を挟んだ反対側の植物園で消去呪文の練習をしていた。いきなり出てきたトカゲに驚いて、まともに呪文が唱えられなかったが、そのせいで、常識を超える現象が起きたのかもしれない。そう考えると辻褄が合う。
状況証拠は自分が犯人だと示している。
「……やっぱり、あたしなのかなぁ?」
『絶対、あんただ! だいたい、あんただけに俺の姿が見えるっていうのも、おかしいだろう?』
確かに、他の誰もユーリウスの存在には気付かないのだ。自分だけに彼が見えるのも、自分が関わっている証拠なのだろう。
「そっか……。きっとそうだね。ごめんねユーリ。あたしのへんてこな魔術のせいで、酷い目に遭わせてしまって……」
もう、自分の非を認めるしかなかった。
そんなティルアに、彼はいらついた目を向ける。
『分かったんなら、早く俺を元に戻せ!』
「え? どうやって?」
『出現呪文を使えばいいだろう? 消去した物を取り出すことができるのは、それを消去した人間だけだ。そんな基本的なこと、十歳の一年生だって知ってる。十七歳の一年生なら、当然知ってるよな?』
少し前のティルアの言葉を根に持っているのか、倍以上の嫌みな言葉が返ってきた。
しかしその刺のある言葉より、突きつけられた難題に、ティルアの顔はみるみる青くなった。
消去と出現は対をなす呪文だ。本当の不要品は消去して終わりだが、重要なものを消去して隠し、必要なときに出現呪文で取り出すという使い方をすることも多い。消去した本人しか取り出すことができないため、絶対に安全な保管方法なのである。
……ってことは、本当にあたしがユーリを消去しちゃったのなら、彼を助け出せるのはあたしの出現呪文だけ?
「ごめん、それ……無理」
『無理だって?』
「あたしは消去呪文だって使えないんだよ? 出現呪文は練習すらしたことないわ。あの呪文を使ったのも成功したのも、選考試験のときの一度きりなんだから……」
生きた人間の消去は、魔術の誤作動が引き起こした事故と言えるだろう。こんな、魔術界の常識を覆す現象で消去された彼を、まともに魔術が使えないティルアが元に戻すことなど、できるはずがない。かといって、同じような事故を期待するのでは、あまりにも可能性が低い。
『ふざけんな! 俺はこんなおちこぼれに消去されたっていうのかよ! この俺が!』
ユーリウスが足元に落ちていた何かを拾い上げると、力任せに地面に叩き付けた。それから、地面にちらばっているらしきものを、荒々しく蹴散らす。
「しょうがないじゃない。これは事故だもん。これから、先生のところに相談に行きましょう。何かいい解決方法があるかもしれないわ」
見えないものに八つ当たりする彼を止めようと、手を伸ばす。しかしその手は、すかっと空振りする。
『んなこと、できるかよ!』
近づいてきたティルアを振り払おうとした彼の手も、同様に空振った。
「どうして?」
『俺が……魔術統括省の入省者の筆頭に選ばれた俺が、よりにもよって、あんたみたいな落ちこぼれの魔術に巻き込まれたことが知られたら、いい笑いモノじゃないか!』
「は? そんなこと言ってる場合?」
『だめだ! 絶対にだめだ!』
ティルアは呆れてため息をついた。
どうやら彼にとっては、元に戻れないかもしれないことよりも、この学院一の秀才であるというプライドの方が勝るようだ。
「でも、ずっとそのままじゃ困るでしょ? せっかく合格した魔術統括省にも、入れなくなるんだし」
『魔術統括省に入るのは、半年も先の話じゃないか』
「だって、あたしは七年間も一年生をやっても、一度も羽が消せないのよ? たった半年で何かが変わるはずがない! ぜーったい、無理っ!」
『んなこと、自信満々に言うな! だったら、俺があんたに魔術を教えてやる! いいか、三日だ。三日で俺を元に戻せ!』
こうして、十年に一人の逸材と呼ばれる秀才による、百年に一人の落ちこぼれのための魔術の特訓が始まった。