『自由』の名を持つ者(1)
ユーリウスについて歩き出そうとした時、駆けつけた集団の中の一人が、石畳に無様に転がっている人の姿に気付いた。
「おいっ! そこにいるのは誰だ。何があった! 大丈夫か!」
声の様子から、男の教師らしい。その男を先頭に数人の大人たちが地面に転がっている男の元に走り寄る。そして彼の、目を疑うような有様に絶句した。
「リーム先生だ。これは一体……」
「これは……羽? 何があったんですか」
「ひっ! どうしてこんな物が、突き刺さっているんだ! あり得ない!」
全身を硬直させ、言葉を話すこともできないリームの頬や顎には、何本もの鳥の羽が突き刺さり、傷口から赤い色が糸を引いている。ズボンやシャツもあちらこちらが赤く染まり、その中央から林檎の芯が飛び出していた。
生徒に魔術を教える立場でありながら、誰一人、何が起こったのか理解できなかった。
「大丈夫ですか、リーム先生!」
教師の一人が彼の上半身を抱えて助け起こそうとするが、踵を支点にして全身が斜めに持ち上がるだけだ。両腕は身体の側面にぴったりと貼りついており、引き剥がすこともできない。まるで一本の丸太のようだった。
「な……っ! これは、拘束呪文か?」
「誰か、この拘束呪文を解ける先生は?」
「いや、私でも無理だ。強力すぎる。一体誰がこんな術を……」
呪文の解除を試みても誰一人、その拘束を緩めることすらできなかった。
教師らは戸惑いながらも、硬直するリームの身体を回転させながら、羽や林檎の芯を取り除き、魔術で傷口を塞いでいく。
「もう、よい」
ある程度の手当てが終わるのを見計らい、生徒たちと一緒に様子を見守っていた腰の曲がった老人が、ゆっくりと進み出て来た。よれよれの夜着にくたりと折れ曲がった三角帽子。片方の口ひげに寝癖がついており、全く威厳が感じられないが、この学院の学院長だ。
学院長はあくびをかみ殺しながら、無様な姿で横たわる教師を見下ろした。
「喋れ(ルクエレ)」
学院長はリームの拘束を解くことはせず、口だけに自由を与えた。
「さて、何があった。言うてみい」
「ティルア・キーリッツが、僕をおびき出してこんな恐ろしいことを……」
「なっ! まさか、ティルアが?」
「そんなばかな……」
あまりにも意外な名が告げられ、周囲の教師たちが驚きの声を上げた。
離れた場所で見守っていた大勢の生徒たちにもその名は届き、ざわめきが集団の後方へと波のように伝わっていく。
「ほぉ。百年に一人の落ちこぼれと言われているあの娘に、魔法統括省のおまえさんが、そこまで無様にやれらたというのかの?」
学院長の楽しげな言葉に、リームは悔しげに唇を噛む。
「くっ……。そ、そうです。あの生徒は悪魔に違いありません。我々では理解できない恐ろしい術を使うのです。即刻捕らえて、魔法統括省に引き渡してください」
「ふむ。本当におまえさんがやったのかい? ティルア・キーリッツ」
学院長は、ティルアがすぐ近くにいることに気付いていたらしい。
一瞬どきりとしたティルアに、ユーリウスが『行こう』と声を掛けた。
彼が先にたち、二人は暗がりの中から、リームを囲む輪に近づいていった。
教師らが指先に灯す光で、その一角だけは真昼のように明るく照らし出されている。
ティルアの顔がはっきりと確認できた時、教師たちは警戒の眼差しを向けながら、道をあけた。
学院長がもう一度同じ質問をする。
「これは、本当におまえさんがやったのかい?」
「はい。リーム先生を拘束したのは、確かにあたしです。でも、先生に林檎の芯を突き刺して、あたしを助けてくれたのはユーリ……ユーリウス・オスヴァルトです」
ティルアの答えに周囲が大きくどよめいた。
落ちこぼれのティルアが、リームを拘束したという事実よりも、行方不明の秀才、ユーリウスの名が挙がったことに驚いたようだ。しかもその彼が、魔法統括省から派遣された教師に、奇妙ながらも残忍な危害を加えたというのだ。
「でたらめを言うな! ユーリウスなど、どこにもいないじゃないか! 君が、僕におかしな術をかけたんだ! そうに決まっている」
リームが、唯一自由になった口でいち早く反論する。彼は、自分が受けた攻撃を、ティルアの魔術によるものだと信じ切っていた。
「そうだ、彼はずっと行方不明だ」
「ここにいない生徒に、罪をなすり付けるつもりなのか」
「それが本当なら、ユーリウスはどこに……?」
他の教師たちも、大半がリームの言葉を支持したようだ。ユーリウスはティルアのすぐ隣に立っているのだが、誰一人その姿が見えないのだから仕方がない反応だろう。
ティルアがちらりと隣を見ると、彼が大きく頷いた。
『大丈夫、やれる。あんたはもう、落ちこぼれじゃないんだから』
彼の言葉に力を貰う。
大きく息を吸い込み、凛と声を張る。
「彼なら、ここにいます。——出現!」
呪文を叫ぶと、瞬きする間もなく、誰もいなかったはずのティルアの隣に、少年の姿が現れた。金色の柔らかな髪に、力強く輝く緑の瞳。紺色の制服。あの日、中庭からこつ然と消えたユーリウス・オスヴァルトだった。
「おおっ……!」
周囲を取り囲んでいた、魔術の教師や魔術師の卵たちは、ティルアが使った魔術の本質をすぐに読み取った。これは紛れもなく、誰もが日常的に使用しているありふれた出現魔術。しかし、年老いた学院長ですら経験したことのない、生きた人間を出現させるという驚異的な術だった。
奇跡を目の当たりにし、惚けた顔をしている人々を見回した後、ティルアはもう一度隣の人物を見た。
「うまくいったの?」
「多分……ね」
ティルアの目からは、彼の様子に何の変化も見られなかった。
ユーリウスの目からは、足元に散らばっていたごみが見えなくなった程度。
周囲の人々がどれほど驚いても、二人の目に映る光景はほとんど変わらないから、術が成功した実感が沸かない。
ティルアは恐る恐る手を伸ばし、彼の胸のあたりに触れてみた。
「あ……」
制服の上着の生地の感触。
震える掌に力を込めると、その手は彼の身体に埋もれることなく、しっかりと質量のあるものに押し返された。
同時に、左の頬に優しい温もりを感じる。
「ティルア。俺の手……分かる?」
その声に視線を上げると、ほぼ同じ高さから見つめる緑の瞳があった。
「あ……あぁ…………ユーリ、分かる。分かるわ!」
頬を包むように触れる手に、自分の手を重ねてみる。
五本の指の複雑な形状。男の子らしい、骨張った関節。爪。手の甲。手首。はっきりと掌と頬に伝わる体温。
彼は間違いなく、こちら側の世界にいた。
「すごいよ、ティルア! 本当に、こっちの世界に戻って来れたんだ!」
「よかっ…………」
感極まって、思わず彼に抱きつきそうになったが、できなかった。それより先に、彼にきつく抱きしめられて、息が詰まりそうになる。
「ああ……ティルア」
耳元に声が、吐息が触れた。
「ずっとあんたに、触れたかったんだ」
普通の状態で聞いたらぎょっとするような囁きを、すんなり受け入れる。
なぜなら自分も、同じことを思っていたのだから。
触れられることが、彼が同じ世界にいることを証明するのだから。
「良かった……。ユーリを元に戻せて、本当に良かった」
華奢な少年だと思っていたのに、抱きしめる彼の腕も頬が押し付けられた胸も、予想に反して力強く、堅い感触だった。彼の背中に腕を回すと、両腕が思いのほか大きな輪を作る。女の子同士でじゃれ合ったときの柔らかな感触とは全然違う。骨格のしっかりした硬い身体を持つ彼は、こんなにも男の子だった。
知らなかった。ユーリってこんななんだ……。
もう何日も一緒にいたのに、初めて知る彼が嬉しい。
おそらく彼も、似たようなことを思っているだろう。
互いの輪郭をなぞり、同じ世界にいることを喜び合っていると、突然、老人の咳払いが割り込んで来た。
「うぉっほん。そういうことは、後にしてもらえんかの?」
「ひゃぁっ!」
「うわっ!」
一気に現実に引き戻された二人は慌てふためき、互いに押し合うようにして離れた。
遠くから、歓声に混じって冷やかすような口笛が聞こえてくる。真っ赤になったティルアは俯き、両手で頭をかきむしったユーリウスは、その後そっぽを向いた。