(2)
ところが。
『おいっ! 待てよ!』
解けた集団から、一人の少年が走り出た。ユーリウスだ。
あれ? ちゃんと、いるじゃない?
ティルアが目を瞬かせながら見ていると、彼は、先頭を歩いていく二人の男子生徒の前に、両手を広げて立ちふさがった。
『待てって言ってるだろ! 俺の声が聞こえないのかよ!』
しかし男子生徒たちは、声が聞こえないばかりか、まるで見えてもいないように、軽口を叩きながらユーリウスに向かって真っすぐ歩いていく。
「ぶつかる!」
ティルアが息を飲んだそのとき、二人はユーリウスの身体をするりとすり抜けた。
「え? な、何が起こっているの?」
両手で両目をごしごしと擦って、目を凝らしてみたが、見間違いなどではなかった。最初の二人に続く生徒たちも同じように、混乱して手足をばたつかせているユーリウスの身体を通り抜けていく。
彼は、陽炎か幻、はたまた亡霊にでもなってしまったかのようだ。
『待てよ! 行くな! 俺はここにいる! どうして誰も気付かないんだよ!』
ユーリウスは、級友たちにすがるように手を伸ばし、声を張り上げたが、伸ばした手は級友たちの身体を突き抜け、むなしく空を切るだけだ。誰一人として彼の存在には気付かない。
『ちくしょう! …………どうなって……る……んだ……』
最後の一人が身体を通り過ぎた時、彼は絶望した様子で、がっくりと地面に膝をついた。
『くそっ! こんな……こんな魔術、ありえないだろっ!』
両手を握りしめて俯き、唇を噛む彼を、南校舎から出てきた下級生の女の子二人が楽しそうに駆け抜けていく。そこに人が屈み込んでいることも、悲痛なうめき声を漏らしていることにも全く気付いていない。
彼の方も、身体を通り抜けられても何の感触もないらしく、顔を上げることはなかった。
「確かにいる……わよね? もしかして、彼が見えているのはあたしだけ?」
ティルアはそれを確かめるために、恐る恐るユーリウスに近づいていった。
地面に這いつくばる金髪の少し手前で足を止めると、その気配に気付いたのか、彼がゆっくりと顔を上げた。いつもと違う弱々しい印象の緑色の瞳と、ティルアの紫色の瞳がしっかりと合った。
それがどういうことか瞬時に理解して、彼ははっと息を飲んだ。
「ねぇ、大丈夫? ユーリ……」
『ティルアっ……!』
ティルアは言葉を続けようとしたが、勢いよく立ち上がった彼に遮られた。
『俺のこと、見えるのかよ!』
しかし、必死に伸ばされた彼の両手は、ティルアの肩を掴むことができず、そのまま向こうに突き抜ける。そして、勢い余って前につんのめった彼の全身が、ティルアをするりと通り抜けてしまった。
「うわ……わわっ! き、気持ちわるっ!」
ティルアは思わず、自分の胸やお腹をなで回した。
身体に穴があいた訳ではなさそうだ。痛くも痒くもないどこころか、なんの感触もない。ただ、他人が自分の身体を突き抜けていった光景が、あまりにも衝撃的で、心臓がばくばくしていた。思わず、胸元のネックレスを握りしめる。
『く……っ!』
背後で苦しそうな声が聞こえて振り向くと、無様な姿で芝生にうつぶせで倒れているユーリウスの姿があった。
「ユーリっ! 大丈夫?」
とっさに駆け寄り、反射的に彼を助け起こそうとしたが、その手は彼の背中にずぶりと埋まってしまう。
「ひっ!」
声にならない悲鳴を上げて、彼から慌てて手を引き抜いた。
これもかなりおぞましい光景だったが、やはり、なんの感触もなかった。彼の身体の下に隠れている芝生が、ちくりと指先を刺しただけだ。
「やだー! なんなのこれぇ! どうしてこんなことになるの!」
芝生にぺたりと座り込み、右手をぶんぶん振って、一瞬前の悪夢のような経験を振り払っていると、彼がむくりと身体を起こした。
『それは、こっちが聞きたいよ!』
「……だよね。いちばん困ってるのはユーリだもんね」
『あんたには、俺が見えるのか?』
「見える……けど?」
二人は、芝生の上で向かい合った。
こうやっていると、何の異常も感じない。彼の姿はしっかりとした存在感で目の前にあるし、全く普通に会話もできる。
ティルアはさっきまでの不可解な現象をもう一度確認しようと、まだ少年らしい華奢な肩に手を伸ばした。びくりと身体を震わせた彼に確認する。
「触ってみても、いい?」
『ああ』
嫌そうな顔をしながらも頷いた彼の肩に手が触れる……ことはなく、指先が彼の紺色の制服に埋もれてしまった。試しにその指をぐるぐると回してみたが、何の抵抗も感じない。視覚に頼らなければ、そこに人がいるなんて到底思えなかった。
「うわ……やっぱり、触れない。ユーリだって何も感じないんでしょ? どうなってるの、これ」
『知るかよ!』
「一体、何があったのよ」
『さっき突然、巨大な魔力が降り掛かってきたんだ。これまで経験したことのない、とてつもない大きな力だった。その直後、周りのみんなが、ユーリが消えたって騒ぎ出したんだ。俺はずっとそこにいたのに』
ティルアが植物園から中庭に戻ってきたのは、その混乱が起こった直後だ。
「そんなにすごい力が? あたしは全然感じなかったけど?」
『そりゃ、落ちこぼれのあんたはそうだろうな』
「だけど、どんな魔術をかけられたんだろう? みんなユーリの身体をすり抜けていったわよ。本当に見えていなかったみたいだし、声も聞こえていなかったし……」
『なのにどうして、あんたにだけは見える?』
「さぁ……」
『あんた、百年に一人の逸材だって言われていたんだよな?』
「え? 急になによ。今は百年に一人の落ちこぼれだって、言われているけど?」
ティルアが百年に一人と呼ばれたのに対して、ユーリウスは十年に一人。そのことを彼は昔から根に持っていた。同級生だった三ヶ月ほどの間には、ずいぶん嫌味を言われたものだ。けれども、今となれば二人の差は天と地ほどの開きがある。だから、何を今さら……と、思う。
『この学院に、あんな桁外れの魔術を使える生徒はいない。先生方の実力だって、学院長や数人を除けば、たかが知れてる。だったら、さっきの魔術は誰が使ったっていうんだよ』
「そんなこと、知らないわよ」
『あんたの仕業じゃないのか? ティルア・キーリッツ』
緑の瞳が、尋問するようにすっと細められた。
「な、なんで、あたし?」
『俺ですら林檎三分の二しか消せないのに、あんたはわずか九歳で、丸ごと消してみせた天才なんだろう? あんた以外、あり得ない!』
「ないない! あたしがまともに魔術を使えたのは、選抜試験の日だけなんだから! あれ以来、消去呪文は一度も成功したことがないのよ。ついさっきも、羽を消そうとして失敗したばかり——」
その言葉に、ユーリウスの表情がさっと変わった。